まさか。
土方さんが結婚してるわけ、あるはずない。
会社でも、そんな話は聞いたことがない。
だからきっと、これはご両親とか親戚とかの記念日で…
でも、自分のものでもない記念日を、わざわざ丸で囲ったりするだろうか?
「この日は確か……」
その日付を、頭の中で思い起こす。
「早く帰る、って言ってた…」
月曜日だった。
週始めで忙しいのだと、そう思っていた、けど………
いやいやと頭を振って、僕は去年の12月のページを開いた。
この手帳は10月始まりみたいだから、僕たちが付き合いだした日だって、きちんと書いてあるはずだ。
「あった」
外食、と小さく書かれていた。
そのあまりにもそっけない書き方に、僕の胸がぎゅっと締め付けられる。
あ、そっか。
誰かに見られた時のためのカモフラージュかもしれない。
結婚記念日だって、そういうつもりで書いたのかも。
そうは思ったものの、自分自身一ミリも信じてなどいなかった。
そこまで手の込んだこと、誰もするわけがないじゃないか。
もやもやしながらページを捲っていくと、僕の誕生日が目に留まった。
そこには丸がつけられていた。
何の丸かはわからないけど、その日は仕事の後レストランでお祝いしてくれたし、プレゼントまでくれた。
だからきっと、これは僕のための丸だ。
尚もページを捲っていると、不意に挟まっていた何かがひらりと落ちた。
慌てて元に戻そうとして、僕はそれに目が釘付けになった。
土方さんと、綺麗な女の人の写真。
一目で分かった。
恋人なんてもんじゃない。
この二人は、特別な関係なんだ、って。
だって、土方さんのこんな表情は初めて見た。
こんなに優しくて、こんなに暖かい顔もするんだ……。
僕の前では、心から笑ってくれたことなんて一度もない。
いつだって瞳の奥には切なさや戸惑いといった苦しげな感情が渦巻いていて、それを見る度に胸が締め付けられるのに、僕はいつも気付かないふりをしていた。
本当は、自由に会えないのも、一度も泊まらせてくれたことがないのも、何かがおかしいと思っていた。
でも、幸せだと思いたかった。
土方さんは心から僕を愛しているんだと、ずっと信じていたかった。
寂しい時に寂しいと言えない、心から甘えられない。
そういうことに対して、心のどこかで満たされないのを感じながらも、ずっと土方さんを好きでいたいと、そう思っていたんだ。
でも、あなたが本当に愛しているのは…僕じゃなかった。
ずっと誤魔化し続けてきた不安と疑問の正体が、露呈した瞬間だった。
結婚してるなんて知らなかった。
会社でも聞いたことがなかったし、そんな素振りは少しも見せなかった。
それどころか、女の人の影すら感じられなかった。
でも分からないな。
もしかしたら、会社でも既成の事実として、当然のように会話に上っていたのかもしれない。
ただ、僕がそれを土方さんの話だと認識していなかっただけで。
いや、認識したくなかっただけなのかもしれないけど。
それに、土方さんとは部署も違う。
格好いいとか、そういう噂を耳にすることはあったけど、そういうのは所詮それだけの内容で、家族構成とか、そういったことまでは聞こえてこなかった。
……それも僕が聞かないようにしていただけなのかもしれないけど。
とにかく、今の今まで全く知らなかった。
向こうから告白してきたくせに、どうしてこんなことになってるの?
だって、あのクリスマスの時点で、土方さんは既婚だったわけでしょ?
じゃあ何で僕に告白なんてしたの?
よっぽど夫婦仲が上手く行っていないとか?
…でもそれなら、結婚記念日に早く帰ったりはしないよね。
訳が分からない。
……大体、馬鹿みたいじゃないか。
僕だけ一途に土方さんだけを思い、求めていたなんて。
僕は一体、土方さんの何なわけ?
友達?セフレ?ただの、性欲処理機?
男なら、そりゃあ都合はいいだろう。
妊娠もしないし、結婚を迫られることもない、というか法律的に無理だし、面倒事は一切ない。
抱き心地は悪いかもしれないけど、それさえ我慢すれば、後は女性を抱くよりずっとお手頃なはずだ。
関係を隠そうと言うのは、他でもない僕の方から言い出したことだから、誰かにバレる心配もない。
おまけに、もし土方さんが、僕が彼を好きだと気付いていたとしたら…更に都合はよくなる。
良いように利用できて、便利以外の何物でもないだろう。
だから、……だから、僕とこんなことをしているのだろうか。
ならばどうして、"愛してる"なんて言うのだろう。
せめてその言葉がなければ……まだマシだったかもしれない。
ここまでは傷つかなかったかもしれない。
"愛してる"は最早、残酷な言葉でしかなかった。
それは、一度たりとも言ってはいけない言葉だったはずだ。
どうしてあなたはそんなことを言うの?
こんなに幸せそうに…笑いあえる人がいるのに………。
土方さんの気持ちが見えない。
僕は、その写真をぎゅっと握り締めた。
その時不意にシャワーの音が止んだ。
僕は咄嗟に写真を手帳に挟むと、それを元通りにアタッシュケースの中にしまって、何事もなかったかのようにジュースに口を付けた。
一体、どんな顔で土方さんを見ればいいんだろう。
彼に何を言えばいい?
心の準備ができないまま、土方さんが部屋に入ってくる。
「総司、お待たせ」
何食わぬ顔でそう言われても、僕は手の中で少し温くなったジュースの缶を見ていることしか出来なかった。
あれほど嬉しかった"総司"と名前を呼ばれることも、今となってはただ苦痛なだけだ。
僕の知らないところでは、あの綺麗な女の人の名前を呼んで、優しい笑みを浮かべているのだろう。
その同じ口から僕の名前が紡がれることに、酷く不快なものを感じた。
背徳感というのか、罪悪感というのか、僕のこの胸の中にあるものが一体何なのか、さっぱりわからない。
だけど、そういうのは土方さんが感じるべきものであって、僕が感じるものではない。
僕は何も悪いことはしていない。
ただ一人の人を好きになって、気持ちが通じ合ったから愛しただけだ。
それを罪に問われるなんて、間違ってる。
「どうした、総司?」
ずっと俯いている僕を不審に思ったのか、土方さんは僕の隣に腰掛けて、僕の顔を覗き込んできた。
バスローブ一枚のその姿から色気が漂ってきて、僕は慌てて目を逸らす。
想っているのは自分だけ。
それなのに、到底嫌いにはなれそうにない。
「総司、何かあったのか?」
尚もだんまりを決め込んでいると、頬をそっと撫でられた。
「っ……」
心の中ではその手を思い切り払いのけたのに、実際僕の手は一ミリも動いていなかった。
「そんな顔はするんじゃねぇよ。俺まで悲しくなるだろうが」
そう言いながら、今度は啄むようにキスされた。
またも拒むことができず、僕はされるがままになる。
そのままベッドに押し倒されても、何一つ抵抗できなかった。
このまま土方さんを突き放して、逃げ帰ってしまおうか。
それとも、どういうことなんだと詰問してみようか。
もう嫌いです、別れてくださいと断言する、なんていう手もある。
だけど僕は、なんにも決められなかった。
土方さんを嫌いになれない。
こんな裏切り行為を受けてもまだ、僕は土方さんが好き。
それだけが、はっきりとした気持ちだった。
だから、どうするべきなのかも、どうしたいのかも分からなかった。
全てを終わりにしたら楽になれるかもしれない。
これ以上悲しまずに済むかもしれない。
そうも考えたが、土方さんとの関係が断絶されてしまうことが怖くもあったのだ。
僕はなんて弱いんだろう。
いや違う、馬鹿なんだ。
どうしようもなく、馬鹿なんだ。
まだ愛されたいと願ってしまうなんて、そんなの気が狂ってるとしか思えない。
「総司、愛してる…」
また一つ、土方さんが嘘を吐いた。
僕の身体を愛撫しながら囁かれるそれには、恐らく何の感情も籠もっていないんだろう。
今まではあんなに嬉しかったその言葉が、今日はこんなに虚しく聞こえる。
虚偽の"愛してる"には何の意味もないはずだ。
けれど……どうしても土方さんを拒絶できなかった。
それはどうして?愛してるから?愛って何?
僕はそっと目を閉じた。
不本意ながらも、涙が一筋零れ落ちる。
「っ総司!?…一体どうしたってんだよ?」
驚いたように言う土方さんに、僕は辛うじて笑って見せた。
それは、笑顔には程遠い笑顔だったけれど。
「…あなたの心が、見えなくて」
僕の言葉を、多少は緩和してくれただろう。
息を詰まらせる土方さんを、僕はぼんやりと見上げた。
土方さん、驚いたのは僕の方です。
あなたの心は一体どこにあるんですか?
僕は、あなたの愛が欲しかっただけなのに。
あなたの心が、僕には見えない。
わたしの大好きな藤田麻衣子さんの「写真」という歌そのものです。
どうにも救済できませんでした涙
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