ベッドに腰掛けてちょっとだけアルコールの含まれたジュースを飲んでいると、脇に投げ捨てられたアタッシュケースが目に付いた。
黒いそれは、あの人らしくとても綺麗に使われていて。
いけない、とそう思うのに、伸びる手を引っ込めることはできなかった。
シャワーの音に耳を澄ませながら、恐る恐るケースを開けると、几帳面に整理された中身が顕わになる。
仕事の書類、メガネケース、財布、そして、手帳。
黒くて分厚くて年季の入ったそれを、僕はそっと手に取った。
―――見ちゃダメだ。
そんないい子の自分は、悪魔の囁きには打ち勝てなかった。
少しの間だけ誘惑に負けそうになる自分と葛藤したような気もするが、きっと最初から、僕はこの手帳を見る気だったんだ。
その証拠に、良心の呵責がないわけではないけれど、僕は積極的にページを捲っている。
僕たちが付き合い出したのは、去年の冬――というか、クリスマス当日のことだった。
恋人もいず、クリスマスなんてどうでもよかった僕は、同じ会社の上司である彼と、皆の分まで残業に勤しんでいた。
年末で決算だの何だの、山々と仕事が堆積しているというのに、クリスマスともなると殆どの人間が早々に帰宅してしまっていたのだ。
上司とは言っても直属ではないため、普段はあまり接する機会はない。
しかしその日は、他に誰もいなかったのを理由にして、二人同じフロアにデスクを並べて仕事をした。
あくせく働いて何とか仕事が片付いたのは、日付が変わる直前だった。
それで、男二人じゃむさ苦しいが、仕事も頑張ったことだし、景気付けに飲みに行こう、ということになった。
僕は、正直あまり乗り気じゃなかった。
こんな時間から?と思ったし、疲れていたし、それに何よりも、僕は土方さんのことを密かに好きだったからだ。
好きなら二人きりで飲めて嬉しいんじゃないかと思うかもしれないけど、僕にとっては苦痛でしかなかった。
だって僕は男だし。
この気持ちが一方通行だっていうことを、痛感するだけだと思ったから。
それで最初はやんわりと断っていたんだけど。
『何て言ったって、クリスマスだからな』
そう言われて、渋々折れた。
寒い寒いと言いながら、陽気なクリスマスソングの流れる明るいイルミネーションの中を二人して歩いたのは、今となってはまるで遠い昔のことのようだ。
朝方までやっているという小洒落たレストランに入って、何故か予約席だったことを不審に思っていたら告白された。
嫌ならいいんだ。
なんせ俺は男だし、お前は俺のことなんざ何とも思ってねぇだろうしな。
だが、気持ちだけは伝えさせてくれ。
面と向かってそんなことを言われて、僕は吃驚すると共に嬉しくなった。
今日、部署も違うのにわざわざたった二人で残業したのも、半ば強引に飲みに誘われたのも、全てはこのためだったのかと納得した。
ずっと好きだった人にそんなことを言われて、断れる奴がどこにいると言うんだろう。
弊害など何も……いや、お互いの性別と社会的な立場上の体裁を覗けば、他には何一つなかった。
だから僕は二つ返事で頷いた。
実は僕も好きだったんです。
ずっとずっと、土方さんのことが好きだったんです……。
それで、僕たちは密かに付き合うことになった。
土方さんにも、世間体とかそういったものがあるでしょうから、表沙汰にはならないようにしましょう。
それは僕から言ったことだ。
決して人には言えない関係。
それでも僕は幸せだった。
人生で最高のクリスマスだった。
それから幾度となく身体も重ねたし、仕事帰りに二人でどこかに出かけることなども多々あった。
例えそれが一般的なデートと呼べるような物ではなかったにせよ、こういうのもまた一つの恋人の形ではないのか、それに何よりも、自分たちが幸せならそれでいいのではないかと…僕はそう思っていた。
お互いの家には決して行かないのも、休日には一度も会ったことがないのも、色事は全てホテルで済ませ、決して泊まったりはしないのも、全てはこの関係が露呈しないようにするためなのだと信じ込んでいた。
たまには休日に会いたいとか、どこかにゆっくり出掛けてみたいなどと考えないこともなかったが、それも全て我慢した。
あんなに大好きだった土方さんに、僕は今愛されている。
一番近いところにいる。
それだけで満足するべきなんだと、何度も自分に言い聞かせた。
『愛してる』
その言葉が僕の全てを包み、安心させてくれていたんだ。
――――今の今までは。
「なに、これ…………」
偶然開いてしまった、手帳の一ページ。
そこには紛れもなく、"結婚記念日"と書かれていた。
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