泣き疲れて寝てしまったようだ。
気が付いたら夜が明けていた。
何と目覚めの悪い朝なのだろう。
総司は泣きすぎてぼうっとする頭を抱えて、のっそりと起き上がった。
思い出すだけで、胸がきりきりと痛む。
総司は、一生忘れられないであろう、瞼の裏に焼き付いた光景を、頭から追い払った。
「この人も、新撰組のお人どすか?」
あの甘ったるい太夫の声も、粉白粉の香りも、着物の衣擦れの音も。
全て鮮明に思い浮かべることができた。
きっとこれから粉白粉の香りを嗅ぎ、衣擦れの音を聞く度に思い出すのだろう。
総司は悔しさに唇をキツく噛み締めた。
ここ二、三週間、土方は妙に素っ気がなかった。
総司はいつものように副長室へ行ってちょっかいを出して遊び、普段と何一つ変わったところはなかったのに、土方はというと、まるでもう飽きた、とでもいうように酷く淡泊で、怒鳴ったりすることもなく、黙々と書状をしたためるばかり。
そんなことがずっと続いていたのだ。
何故急にこんな態度を取られるのか心当たりは皆無だし、不安は募っていく一方だった。
永遠を誓い合ったわけでもなし、ただお互いに、わざわざ言わなくても何となく伝わっているだろうという、よくよく考えれば脆すぎる思い込みだけで付き合っているのだ。
もしかしたら、自分が土方に依存しきっていただけで、土方は自分のことなど、一時の暇つぶし、ただの遊び相手ぐらいにしか思っていなかったのかもしれない。
それで、いい加減自分のことを煩わしく思い始めているのかもしれない。
確かに、自分は土方を困らせることこそあれど、土方を喜ばせるようなことは何一つしていない。
そう思って、総司は密かに胸を痛めていたのだ。
昨日島原に行ったのは、寂しさに耐えられなくなったからだった。
土方は不在、他の皆も隊務やら何やらで忙しそうにしていた。
もう日は暮れかけていたから、子供たちと遊ぶわけにもいかない。
夜も開いている見世といったら、島原しか思いつかなかった。
要するに、総司は危うく浮気しかけるところだったのだ。
…しかしまさか、偶然とはいえ、あんな光景を見ることになろうとは。
傷付くのも、何ら無理はなかった。
耳慣れた声が偶然聞こえてきたから。
だからあの時、襖を開けてしまった。
土方は完全に心変わりをしたのだと見せつけられて、急に素っ気なくなった態度の意味も、その一瞬で全て分かってしまった。
あの時島原の襖を開けた瞬間に、全てを悟ってしまったのだ。
本当に、全てが偶然だった。
しかし、総司は深く心を抉られた。
怒ればいいのか、泣いたらいいのか、もうさっぱり分からくなった。
自分で自分の気持ちが制御できなくなっていた。
何故急に、ここまでの心変わりをしてしまったのか。
何故、今まではっきりと言ってくれなかったのか。
疑問が疑問を呼び、取りあえず分かったのは、今自分が、土方を憎んでいるということだけだった。
(はぁ………辛いな……)
総司は天井を睨み上げるようにして涙を堪えた。
土方に、自分への愛などこれっぽっちもなかった。
愛がないどころか、やはり土方は、女の柔らかい身体の方がよかったのだ。
土方は、日野にいた頃からよく遊んでいた。
それが自分なんかに絆されるなんて、決して有り得ないことだったのに。
一瞬でも信じた自分が馬鹿だった。
……しかしそれでも土方を憎みきれないのは、それだけ愛情が深かったということなのだろう。
いっそ、土方を憎み倒すことができたらどんなに楽だっただろう。
それができず、まだ心のどこかで土方の愛を渇望し、土方を憎む自分を憎んでしまっているからこそ、身が二つに引き裂かれるような痛みを感じるのだ。
自分は不器用だ、感情の一つも制御できないで、情けないことになんてことない不逞浪士に斬られちゃってるんだから。
もう何がどうなってもいい気分になった。
夜帰ってきた時、皆に迷惑をかけたし、一君にも色々と酷いことを言ったような気もする。
後できちんと謝らなくちゃなぁ……
長閑にそういうことを考えて、本題からは目をそらした。
…本当は、土方が恋しくて堪らない。
あんなに酷い振られ方をしても尚、その愛が欲しいと思ってしまう。
別に恋人同士としてではなくとも、今まで、兄弟のように、仲間として付き合ってきた長い年月の間で、土方という存在は、総司にとって欠かせない、掛け替えのないものと化していた。
それが或る日突然なくなるなんていうことは、あってはならないことだった。
そんな日が来ることを、総司は想像すらしていなかった。
だから、実際に現実として降りかかってくると、もうどうしていいかわからないのだった。
総司は、すれすれのところで保っているその危うい精神を、いつの間にか土方の存在をも加味して調整していたのだ。
しかしそれが崩れた今、総司の精神は、まるで波打ち際の砂の城のように、あっという間に崩壊しようとしていた。
(土方さんにとっても、僕はなくてはならない存在だと思っていたんだけどな)
違った、ということか。
ただ、それだけのこと。
総司は淡々と事実を思い浮かべて、昇華させようとした。
どうせ傷付くなら、もう二度と傷付けないほど、深く傷付いてしまえばいいんだ。
自暴自棄になって、そう思った。
ふと顔を洗いたくなって、総司はゆっくりと上半身を起こした。
途端に足に激痛が走った。
(っ痛………)
それでまた情けなくなる。
足はじくじくと痛み力が入らないし、医者の言った通り微熱もあるようなので、状態は最悪だった。
しかし厠にも行きたかったので、総司はかなりの時間をかけて起き上がると、斬られた左足を引きずりながら、自室を出た。
こんなことなら、昨日一君を追い返さなきゃよかったかも。
などと弱気なこともつい頭に浮かんでしまう。
片足ずつゆっくりと下駄をつっかけ、やっとのことで厠に行き、うんうん言いながら着物をたくし上げて用を足すと、次は井戸へ行って、これまた唸りながら水を酌んで顔をバシャバシャと洗った。
手拭いを忘れたなぁと思って総司が自分の部屋の方を見ると、斎藤が中を覗き込んでいるのが見えた。
起こしてしまったのか、はたまたずっと起きていたのか分からないが、斎藤のことだから、きっと自分を心配してくれているのだろう。
ついでに昨日の醜態についても謝ろう。
そう思って総司が声をかけようとしたら斎藤がこちらを見た。
「総司……」
斎藤は総司の顔がびしょ濡れなのを認めると、踵を返して自分の部屋へ戻り、手拭いを取ってから庭へ降り立った。
「総司、何かあれば声をかけろと言ったではないか」
少し不機嫌そうに、斎藤は手拭いを差し出した。
「医者にも絶対安静、とキツく言われているのだ。絶対に守ってもらう」
ピシャリと言われて総司はうなだれた。
「それより、身体の具合はどうだ」
少し熱がある……
そう言おうとして、総司はその異変に気がついた。
「っ……」
顔面蒼白になる総司を、斎藤は訝しげに見た。
「総司?…隠さずに言ってくれ」
「…っ……」
どんなに頑張っても、風が唸るような掠れた音しか出ない。
「総司?一体………」
斎藤もただ事ではなさそうな総司の様子に気付き、どうしたのかと問う。
「……ぁ……ぅ……」
口をぱくぱくさせ、苦しそうに喉を抑えて何事かを主張する総司に、斎藤はやっと事態を理解した。
「まさか総司…声が、出ないのか…?」
「………ぅ…」
ひゅうひゅうと喉を鳴らしながら頷く総司を、斎藤は唖然として眺める。
「ふざけているのでは…あるまいな?」
総司はぶんぶんと首を振って、今にも泣き出しそうな顔で、必死で声を出そうとした。
しかし、口を大きく開けてみても、お腹や喉に力を入れてみても、何をしても出てくるのは、掠れた息だけだった。
総司は、完全に音を失っていた。
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