半分意識のない総司をベッドまで運ぶのは、かなり骨の折れる作業だった。
まったく、図体ばかりデカくなりやがって。
しかし、制服越しに感じた骨ばって薄い胸板は、総司の脆さを物語っているようで、またもや胸が痛くなる。
この胸の痛みにも、もう慣れっこになりそうだ。
どこから来るのかわからない、切なさと身を引き裂かれるような悲しみに、胸が焼けるように熱くなる。
しかし、理由は分からなかった。
総司が咳き込む度に心臓が止まりそうになるのも、単にその身を案じているからだろうと無理やり思い込んだ。
だって、変だ。
どうしてただの流感ごときで、総司、死ぬな、なんて思わなきゃならねえんだ。
おかしいだろ。
総司が眠りについたのを見届けてから、俺は水だの熱さまシートだのを取りに寝室を後にした。
それから目的の物を持って再び寝室に行き、体温計を総司の脇に挟んで暫く待つと、ピピっと電子音が告げた熱は37.8度だった。
こりゃあ結構高いな、と思いつつ額に冷却シートを貼ってやり、一通り身の回りを整えてやってから、病人には悪いだろうと思って、ベランダに出て煙草をくゆらせた。
昔、総司が小さかった頃は、煙草一つでかなり気を遣ったもんだ。
まあ、ミツさんに色々うるさく言われたからってのもあるが。
実際、気管支の弱い総司のことが心配だった。
一緒にいる時に総司が喘息の発作を起こせば、それなりに世話を焼いてやったもんだ。
吸入を手伝ったり、一度くらい病院に連れて行ったこともあったかもしれない。
そんなことすっかり忘れていたが、こうして総司が倒れてみると、いちいち身体のどこかで覚えているもので。
枕の高さだの、白湯の温度だの、意外にすんなりと看病できている自分が可笑しかった。
記憶ってのは、忘れてしまったようで、案外どこか心の奥底で、必ず覚えてるもんなんだな、と思う。
すぐには思い出せない記憶を、ふとした拍子に思い出すと、ああ何で今まで忘れてたんだろうってくらい大事な思い出だったりする。
忘れていることすら忘れてしまっているような、そんな大切な記憶が幾つあることだろう。
いや、人間の脳ってのは、一回でも覚えたことは、決して忘れないんだったな。
ただ、それを頭の奥底にしまいこんで、使わずにいるだけだとかなんとか。
ちらりと部屋の中で寝ている総司を見やれば、浅く呼吸を繰り返しながら眠っていた。
手頃な寝間着がなかった所為で、制服のカーディガンを脱がせ、ベルトとネクタイを緩めただけのかなり窮屈な格好ではあるが、あまり苦しそうな顔はしていないのでいいことにする。
あとでイチゴオレでも買ってきてやろうか、と考えた。
総司のことは、本当に餓鬼の頃から知ってんだ。
勿論病気になれば心配するし、独り身の俺にとっては、どう説明していいのかよくわからねぇが、とにかく大切な存在だ。
そういや昨日の補習の時、総司の奴がだってトモダチでしょ?とか何とか言ってたな。
そうか。俺たちはトモダチなのか。
そう思って、その時新鮮な驚きを感じた。
そして、驚いている自分にまた驚いたのを、はっきりと覚えている。
トモダチ、か……
実際に言葉にして言われてみると、何だかしっくりこない。
何とも微妙なスタンスだ。
それなりに歳が離れているが、弟のようでもあり、でもそれ以前に、俺たちは教師と生徒なわけで……
『それ以前に、副長とその部下っていう枷があるでしょ?』
「ま、でもそんなの関係ねぇと思うんだがな…」
……………ん?
俺は今、何を……?
「……………副長、か…」
何故か、懐かしい響きだった。
学生の頃は剣道部の副部長で、今は剣道部の副顧問だから…ま、呼ばれ慣れてるっちゃ慣れてるのかもしれねぇが。
「…げほっ……」
その時、部屋の中から、総司が激しく咳込むのが聞こえてきた。
「総司?」
慌てて煙草の火を消して室内に戻る。
ベッドに駆け寄れば、総司が苦しそうに咳き込んでいた。
こっちまで苦しくなってくる。
この焦燥感は、一体どこから来るんだ?
まるで、総司が俺の手の届かないところに行ってしまうような…
「げほっ…」
「大丈夫か?」
意識があるのかないのか、総司は目を瞑ったまま荒い呼吸を繰り返すだけだ。
薬を買ってきてやらなきゃならねえな。
それから何か、喉に効くもの…
もしかしたら、病院に連れて行った方がいいかもしれねえ。
そこまで考えて、熱心に総司の心配をしてある自分に驚いた。
思わず苦笑が漏れる。
別に、総司の保護者ではないが…
でも、総司の世話を焼くのは自分の役目のような気がしたし、他の誰かに任せるのは嫌だった。
そして、それに対して何の違和感も抱かなかった。
『土方さんは苦労性だから』
昔、誰かに言われた気がする。
『何でもかんでも背負い込みすぎるんですよ』
すぐには思い出せない大切な記憶の中で誰かがそう言っていた。
「……っくそ」
ベッドサイドの椅子に座り込みながら、俺は吐き捨てるような溜め息をついた。
何となく気付いてはいた。
俺が見た夢はまるで"記憶"のようで…
総司にその"記憶"のことを聞けば、何もかも"覚えている"と言われた。
俺が"思い出せない"んじゃ仕方ない、とも言っていたっけか?
それに加えて、朝から続く幻聴のようなあの声と、繰り返されるデジャヴ。
俺だって馬鹿じゃない。
これら一連の出来事が何を示唆しているかなんて、すぐ想像がつくってもんだ。
要するに、俺は何か大事なことを忘れちまってる、ってことなんだろう。
記憶喪失になった覚えはないが、思い出してみれば、確かにそんなこともあったと納得し、すっきりするはずの何かがあるのかもしれねぇ。
その所為で総司は悩んでいる(ように見える)んだろうし、俺も言いようのない焦りやら戸惑いやらを感じるんだろう。
総司だって、必死で俺に伝えようとしていた。
総司の中では、俺も覚えていて当然のことなんだろうか?
なら、何故はっきりと言わないんだ?
二人に関する記憶なら、言われて思い出すこともあるかもしれないじゃねえか。
ま、言われてもイマイチぴんとこねえことも山ほどあるが、総司があんだけ伝えようとしていたことなんだ。
絶対思い出すだろ、普通。
一体何だ……
俺が忘れてしまったのは…どれほど大切なことなんだ?
何時の、どんな記憶なんだ……
それを思い出しさえすれば、俺は何かしらの答えを手に入れられるのか?
霧の中でもがくとは、まさにこういう状況のことを指すんだろう。
分かることは、俺は何か大事な記憶を無くしているという、ただそれだけだった。
ふと総司を見て、つい衝動に駆られた。
何となく昔を思い出してみたくなって、布団からはみ出していた手を握ってみる。
総司の手が、何となくあの夢の中で臥せっていた奴とだぶって見えたのだ。
「細ぇ手だな………」
明らかに栄養の足りていない手首を見て一人呟く。
そっと確かめるように握り締めた手の感触には、不思議と懐かしさを感じた。
何だろうな、どこかでこの温もりを、いつも感じていたような気がしてならねぇ。
思い出せ…思い出すんだ………
そんなことを考えながらすやすやと眠る総司を見ている内に、俺の意識も闇へと落ちていった。
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