ふわり、と意識が覚醒した。
…とたんに襲い来る、激しい頭痛。
「ん゛……うぅ……」
目を閉じているのに、眩しさを感じる。
強い光が差し込んでいるのか。
土方はうっすらと目を開けた。
「………………」
どこだ、ここは。
白い。どこら中が、真っ白だ。
眩しくて目も開けていられない。
眩しさを感じるなら、一応中脳は機能しているのか?
しかし、状況からして土方は判断した。
あぁ、ここは黄泉の国ってやつだな。
とうとう俺も御陀仏したのか。
が、不意に耳慣れない無機質な音が聞こえてきて思わず眉を顰めた。
ピッピッピッピ………
なんだ?この音は。
規則正しく脈打つそれは、まるで……まるで……
ん?脈打つ?
そこでハッとした。
目を擦ろうと腕を上げれば、まっすぐに伸びる管が目に入った。
その先に繋がる点滴。胸から伸びる数々の電極。
そして、身体中に巻かれた真っ白な包帯。
……ここは、どう見ても病院だ。
よく見ればベッドだの箪笥だのが置いてあるし、壁一面の窓からは外の景色がよく見える―――病院の庭が。
燦々と降り注いでいる光も単なる日光で、日当たりのやたらいい部屋なのだ、ということはすぐに分かった。
あぁ、病院か。
土方はばたりとベッドに沈み込んだ。
それから、ふと疑問に思う。
何故、病院なんかにいるのか。
どうしてこんなに重症なのか。
一体、何があったのか。
――――全く思い出せない。
と、その時。
「あっ!!!」
突然病室の引き戸ががらがらと開いて、白衣の天使、もとい看護師が飛び込んできた。
「…………」
何と言っていいか分からず、土方は黙って看護師を見る。
すると看護師は大慌てで踵を返し、病室から出ていってしまった。
「ん………?」
疑問を感じていると、すぐにまた先ほどの看護師が入ってくる。
今度は、医者も一緒だった。
「おお!!!土方さん!!!!!」
医者は目が合うなり、世紀の大発見をしたような勢いで駆け寄ってきた。
「意識が戻られたのですね……!!!」
土方は眉を顰めた。
「あ、あの………」
「覚えておいでですか?貴方は大型のトラックに撥ねられたんですよ。それから一週間近く意識不明のままだったんです。みんなお手あげで、もう駄目だろうと言ってたんですがね、奇跡ですよ、本当に!意識が戻るなんて!」
「は、ぁ………」
「いや、本当に植物人間にすら成り得ないほど酷い状態だったんですよ?病院側は助かる見込みのない者に治療なんかするなって大騒ぎして、臓器提供も見込めないし、あと二、三日しても目が覚めないようならもう諦めろと言われていたんです。出血は多量で、全身複雑骨折だらけでしたし。脳震盪はもちろんのこと、内臓まで傷ついていましたからね」
自分の手柄になるからだろうか、医者はとても興奮していて、嬉しそうだ。
「本当に、奇跡としか言いようがありません。こういうのを聖夜の奇跡って言うんでしょうかね?あ、いや、クリスマスはまだ先でしたね、ははは」
土方は、奇跡だ奇跡だと大騒ぎしている医者を困惑して見つめた。
そうは言われても、何も記憶がないのだ。
「あの………」
「ん、どうかなさいましたか。どこか痛むところがおありですか?意識が混濁するとか、視界がぼやけるとか。いえね、リドカインを投与しているので、怪我が痛むわけはないんですが」
「あ、…頭が、少し……」
「頭痛ですか、それはそれは……すぐに薬を持ってこさせましょう」
「あ、あと、それから……」
「なんでしょう」
土方は、遠慮がちに口を開いた。
「あの、…………どうも…記憶が、ないみたいなんだが」
医者は看護師諸共、一瞬絶句して固まった。
それから医者が看護師に慌てたようにあれこれと指示を出し、病室から出て行かせて、自らは矢継ぎ早に質問を始めた。
「…ご自分の名前は覚えてますか」
「あっと……ひじかた、か?」
「下の名前は」
「…………分からねぇ」
医者は途端に険しい顔になった。
「住所は?」
「住所……」
「年齢」
「………」
「家族構成は?」
「さぁ…?」
「なら、職業は」
「何も思い出せねぇ…」
答えながら、どんどん自分で心細くなっていく。
アイデンティティが失われるというのは、こんなにも多大なる喪失感と不安に苛まれるものなのか。
いや、そもそもアイデンティティとはなんだ。
自分の名前が本当に自分の名前だと、自信を持って言える奴なんかいるのか?
「では、事故の経緯や、その前後のことも全く覚えていらっしゃいませんね?」
「あぁ……全く」
「そう、ですか…それは困りましたね……どうやら、逆行性健忘のようです。事故の前後の記憶だけの話なら、まだ一時的なものだとも言えるのですが、個人情報まで全て忘れているとなると……」
「なると、何だ?」
土方は平静を装って、医者に尋ねた。
「いえ、少し、治るまでに時間が必要だということです。人によって、十年以上かかる場合もあれば、一週間やそこらで思い出すこともあります。ただ、下手をすると、一生記憶が戻らないかもしれない」
「そんな……」
果たして、自分には掛け替えのない思い出や忘れたくないことがあっただろうか。
記憶のない今となっては謎だったが、過去が永遠に失われるというのは、何とも形容しがたい恐怖だった。
身体がふわふわ浮いて、地に足がついていないような、心もとない感覚。
俺は人間でいいんだよな?と、そこから確認したくなるような不安を感じる。
「大丈夫ですよ、事故の後遺症にはよくあることですから」
「いや、でも……」
「まずは脳が傷ついていないか、精密検査をしてみましょう。治る早さも、それによりけりですからね……とは言っても、まずは怪我の方を治すのが先決ですが」
その時、先程の看護師が薬と思しきものを携えて戻ってきた。
「土方さん、これ、頭痛のお薬です」
「あぁ……ありがとう」
「では、意識も戻ったばかりで、脳にも身体にも多大な負担が掛かっているでしょうから、もうお休みになってください。また後で来ます」
「はぁ」
「本当に、今こうして話していられることが奇跡なんですから。なに、記憶なんてすぐに戻りますよ」
医者は気休めを言うと、点滴を少し調節してから出ていった。
病室が再び静寂に包まれる。
これで少し頭を整理できる、そう思ったとき。
「あーあ、ようやく長話が終わってくれた」
不意に耳元……いや、ベッドの下の方で声がした。
度肝を抜かれて、びくりと身体が跳ね上がる。
そんな僅かな振動にも悲鳴を上げる体に嫌気がさした。
「誰だ」
「ふぁあ、僕もう待ちくたびれちゃいましたよ?何だってあの医者はあんなに話が長いんですかね」
そんな文句と共に、がさごそと不器用な音を立てて、ようやくそいつはベッドの下から姿を表した。
「……?」
顔を上げて、現れた人物を凝視する。
それは、ただのあどけない少年だった。
色素の抜けた猫っ毛が少し跳ねている。
どこにでもいるような、ごくごく普通の青年だ。
少し目を引く点は、病的なまでに白い肌と、普通よりは整ってしまっている顔、といったところだろうか。
そのままじっと見ていると、不意に相手が微笑んだ―――ように見えた。
土方は今度こそ、不信感を剥き出しにして相手を睨めつけた。
何か言ってみるべきかと考えを巡らせていると、今度は声を出して笑われた。
見ず知らずの相手にいきなり笑われるなど、不快以外のなにものでもない。
土方はとうとう痺れを切らして口を開いた。
「お前、誰だよ」
「はは、随分なご挨拶ですね」
「いや、不法侵入っつーか、人の病室に勝手に入り込んでる奴に言われたかねぇよ」
「よく言いますよ、今の今まで意識すらなかったくせに」
「お前、何でそれ………」
「だって、ずっと観察してたから」
「はぁぁ?お前一体何者なんだよ!」
つい声を荒らげると、頭にきーんと響いた。
「ってぇ……」
顔を歪める土方に、少年はさも面白そうに笑顔を向ける。
「それ、飲んだら?」
「あぁ?」
少年はそれ、と言ってベッドサイドに置かれた頭痛薬を指差した。
「折角看護師さんが持ってきてくれたのに、悪いでしょ?」
「っ……お前に言われなくても飲むっつうの……大体お前、いつからそこにいたんだよ!全部見てやがったのか!」
土方は辛うじて動く左手で薬を煽りながら言った。
「だからー、言ったでしょ?ずっと観察してたって」
「観察ってなんだよ観察って!お前はストーカーか?!」
「うっわ酷いなぁ。命の恩人に向かってそれはないんじゃないですか」
「恩人だと………?」
聞こえてきた恩人と言う言葉に、眉間にぐっとシワが寄る。
「…お前、もしかして俺を助けてくれた奴なのか?」
でも、どうやって?
土方には、事故の記憶など全くない。
どうやって轢かれたのかも、どうしてそんなことになったのかも知らなければ、誰が救急車を呼んでくれたのかも分からない。
「聞いた話じゃ、俺はもう助からないって、みんなお手上げだったそうだが?」
不法侵入を誤魔化すための出任せなのではないかと、土方は訝しい目で少年を見た。
「ふふん、まぁ、そうですね。貴方、一回死んでますもん」
「はぁ?」
何だ、今度はオカルトか。
三途の川を行ったり来たりしていた、とでも言うつもりなのか。
「だからー、僕が土方さんを助けたんですってば。土方さんの、一回死んじゃった魂を、無理やりこっちの世界に戻してあげたの!」
「は!?訳わかんねぇよ!つーか、何でお前は俺の名前を知ってんだよ」
苛立ちを含んだ声で問いかけると、少年はにっこりと笑みを漏らした。
「何でって、僕天使だから」
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