それから数日が経過した。
近藤が帰ってくるまであと少し。
時間切れは、もうすぐそこまで迫っていた。
それに伴い、土方を始めとする全ての幹部が敵をひっ捕らえようと躍起になり、その仕事ぶりにも益々拍車がかかってきていた。
「総司おっはよー!」
総司の見張りを任されている藤堂と原田は、ほぼ四六時中総司の部屋に詰めていた。
総司はというと、足の怪我は段々と回復してきたものの、声は相も変わらず出ない状態が続き、そして、めっきり笑わなくなっていた。
その瞳はいつも暗く沈み、いくら明るく装っていても鬱屈した雰囲気が漏れ出している。
「総司、飯。ちゃんと食ってくれよ」
食事を運んできた平助に言われて、総司は顰めっ面で盆を引き寄せた。
それを見て、藤堂は安心したように息を吐く。
「全くさ、総司が食べてくれないと、俺が怒られるんだからな」
口では文句を言うものの、藤堂の顔は安心したように緩んでいる。
「それじゃ、今日は俺は巡察だから行くよ?後で左之さんが来るから!」
そう言い残して、藤堂は部屋を出ていった。
残された総司はご飯を脇に除けると、徐に立ち上がった。
毎日ろくに動けていない。
唯一体を動かすのは、厠や立つ時と湯浴みをする時くらいなものだ。
今まで毎日、刀を握らなかった日がない身としては、こうも寝てばかりの生活はいささか窮屈だった。
別に外出したいと言うのではない。
ただ、屯所の中でもいいから、少しだけ新鮮な空気を吸い、空を見上げたかったのだ。
それに、頼んでもいないのに毎日毎日監視されるのは、なんとも気分の悪いものだった。
どうせ自分が勝手なことをしないようにという副長殿のお達しなのだろうが、いい加減うんざりする。
誰もいない今のうちに部屋を抜け出してしまおうと、総司は慎重に足を動かして、中庭に出た。
玄関の方では、巡察に出かける組ががやがやと準備をしている。
境内の方に近づくと、今度は稽古中の隊士たちの威勢の良い掛け声が聞こえてきて、総司は急に、一人世界から切り取られ、置いてけぼりにされたような気分になった。
木の上では、長閑に雀が鳴いている。
急に、酷く孤独を感じた。
すっかり筋肉の落ちてしまった足を見下ろして、総司は一つ溜め息を落とした。
今の自分は無力すぎて、いないのとまったく同じだ。
その時不意に誰かの話し声が聞こえてきて、総司は慌てて木陰に隠れた。
元通り部屋に押し込められてしまったら適わない。
こっそり様子を伺っていると、歩いてきたのは一番組の隊士たちだった。
幹部の次に一緒にいる時間が長いわけだし、それなりによく知った仲だ。
何やら深刻そうな顔で額を突き合わせながら、こちらに歩いてくる。
「…は……大丈夫なんだろうな?」
距離が少しあるので、何を話しているのかが聞き取れない。
「……あぁ、それは…した」
声が出なく自分が怪我をした所為で、最近の一番組は非番ばかりだ。
もしかしたらそのことで何か話しているのかもしれない。
申し訳なく思いながらも、総司はどうしても話の内容が気になった。
尚も耳をそばだてていると、やがて話が終わったのか、隊士たちは離れていってしまった。
「じゃあ、今夜」
「あぁ」
最後に、その言葉だけがやたらはっきり聞こえた。
今夜、一体何があるというんだろう。
総司は一人首を傾げた。
もしかしたら、二人で飲みに行こうということなのかもしれない。
それにしては、二人とも表情がいささか深刻すぎた。
妙に引っかかるものを感じながらも、どの道今の自分にできることは何もないので、総司は考えるのを止めて木陰から出ようとした。
その時。
「総司〜〜〜〜〜!!!!!」
壮絶な怒鳴り声が聞こえてきて、総司はびくりと身体を震わせた。
見れば、物凄い形相で原田がこちらを睨んでいる。
どうやら、見つかってしまったようだ。
総司は深々と溜め息を吐くと、渋々木陰から出ていった。
「っ総司!勝手に部屋の外に出るなって言ってるだろ!」
ひょこひょこと足を引きずりながら歩いていくと、頭ごなしに叱られた。
怪我人相手にいくらなんでもそれはないんじゃないかと、こういう時だけ都合よく怪我人であることを誇張してみたりして、現金な自分に思わず自嘲した。
総司はぺろりと舌を出して見せると、ゆっくりと部屋へ戻った。
「ま、そんだけ動き回れるってことは、元気になってきてるってことなんだろうけどな」
総司はぎこちない笑顔でそれに応える。
「気持ちは分かるんだぜ?寝てるばっかじゃ退屈だろうしよ」
元通り布団に収まりながら、総司は原田の言葉を聞いていた。
「けど、俺は総司の足が心配だから――って総司、飯食ってねぇじゃねぇか」
原田に呆れたように言われて、総司は思い出したように朝食の盆を見やった。
すっかり存在を忘れていた。
手を合わせていただきますをしてから、総司は少しずつそれを食べ始めた。
「もう冷めちまってんだろ」
原田が苦笑して言った。
総司はただ首を振って、味噌汁に浮いている葱を仕分けることに専念する。
その時、不意に襖越しに声がかかった。
「原田、いるか?」
それは、紛れもなく土方の声だった。
聞くや否や大袈裟に体を震わせる総司を、原田はちらりと見やる。
総司も知らない秘密を知っている立場としては、土方の登場による総司の動揺はよく理解できた。
「あぁ、何か用か?」
「悪ぃが、ちょっと外せるか?」
襖越しの会話が続く。
それを総司は、何とも複雑な気持ちで聞いていた。
外せるかと聞くということは、自分には聞かせたくない話でもあるのだろうか。
今までも、幹部に言わないまま進められていた話は多々あったが、自分一人だけ、ということは決してなかったように思う。
こうもあからさまに除け者にされるのは初めてだった。
隊務もこなせない身の上では、知る必要はないと言うことなのか。
総司は強烈な疎外感を感じて、一人俯いた。
そんな総司の心中を察してか、原田は総司の肩にぽん、と手を乗せると、静かに立ち上がった。
「なに、大した話じゃねぇだろうよ。土方さんが言うと何でも深刻そうに思えちまうんだよな、これが」
総司は顔をあげることが出来なかった。
すると、すぐ戻ってくるからと言って、原田は部屋の外に出て行った。
間もなく土方と共に連れ立って歩いていく音がして、やがてその足音も聞こえなくなる。
その間総司は身動ぎもせずに、じっと目の前の食事を見つめていた。
痛むのは、身体か心か。
本当に痛んでいるのは、心なのではないか。
膝の上の食事を呆然と眺めながら、深層心理の痛みには気付かない振りをした。
最後に土方を見たのはいつだっただろうか。
近藤が来ると言って食事を運んでくれたあの時以来、話をしていないどころか、もう顔すら合わせていなかった。
こんなにも離れているのは、試衛館時代土方が弟子入りする前を除けば初めてだ。
声を聞くのでさえ久しぶりで、先ほど聞こえた声は、酷く新鮮に感じられた。
いくら自分で招いた結果とは言え、寂しい気持ちは誤魔化しようがなかった。
来るなとは言ったものの、土方のことだから強引にでも会いに来てくれるのではないかと、心のどこかで期待してしまっていた。
しかし結局のところ、それは自分の高慢でしかなかったのかもしれない。
実際には、土方は一度も顔を見せてくれていない。
見に来ずとも心配にすらならないほど、どうでもいい存在になってしまったということなのだろうか。
本当に、土方の気持ちはもう自分から離れてしまったのかもしれない。
そう思うと、総司はどうしようもなく切ない気持ちになった。
(僕は、何も悪いことはしてないのに…)
早く怪我を治して、声も元に戻して、また隊務をこなしたかった。
寝ているばかりでは、気を紛らわす物が何もない。
どうしても、気持ちが暗い方へ向かってしまう。
そんなことを考えていたら、頬を伝って落ちた涙が、真っ直ぐ味噌汁の上に落ちた。
浮いていた葱がふわりと揺れる。
…好き嫌いをするなと言われることも、もう二度とないのかもしれない。
それどころか、総司、と呼ばれることすら、もうないかもしれない。
濡れていることに気づくのが水から出てきた時であるように、幸せだったことに気づくのはまた、幸せではなくなった時だった。
幸せの自覚とでも言うのだろうか、今まで当たり前だと思っていたこと、日々のくだらないやり取りまでもが、一度失ってしまったらもう二度と取り戻せないような、掛け替えのない幸せだったのだと気づかされる。
どこかで繋がっていると信じたかった。
少しでもいいから、愛されていると信じたい。
(お願い……あと、もう一度だけ…)
貴方の心の中に、僕が存在していますように……。
総司は力なくうなだれた。
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