久しぶりに故郷に帰ってきた。
道に立ってアスファルトから立ち上る湯気をぼんやりと眺めながら、土方は首筋に垂れる汗をハンカチで拭った。
この、メインストリートとは名ばかりで、いつだって閑散としていた通りも、土方にとっては懐かしいばかりである。
時が経てばそれなりに土地開発が進むかと思っていたのに、辺りは未だに山だらけで真新しい建物もない、むしろ更に過疎化が進行したようにすら感じられる。
人っ子一人いないふるさとの景色に、土方は小さな笑みを浮かべた。
蝉が競い合うように鳴いている。
半分傾いたような店ばかりが続く商店街を抜けると、今度は辺り一面に田んぼが広がっていた。
強い日光を遮るものが何もない。
遠くの方に人影が見えたと思ったらかかしだった。
そういえば、かかしが怖いとべそをかいて、いつも袖を掴んできた奴がいたなぁと、暫く思い出そうともしなかった記憶に思いを馳せる。
ずっと仕事が忙しかった。
一流企業に就職が決まって、この村の出世頭だと大騒ぎされながら都会に一人赴いた。
世間の波は荒く、揉みくちゃにされ、神経をすり減らしながら、それでも土方は上手くやっている方だった。
もう何年も纏まった休暇など取っていなかったが、つい先日海外支社への異動が決まり、それなら行く前に一度故郷に戻りますと言って暇をもらった。
それでようやく帰ってきたのである。
この町にももうこれきり、暫くは戻りたくても戻れないだろう。
不思議なものだ。
向こうにいた間はすっかり頭から追いやられていたというのに、戻ってきた途端に些細な記憶まで鮮明に思い出され、懐かしさばかりがこみ上げてくる。
離れたくなくなったら困るなと、土方は苦笑した。
故郷は昨日まで土砂降りの雨だったらしく、水蒸気の纏わりつくような匂いが強烈な湿気と共に漂っている。
そういえば、もう少し歩いたところに右手に折れる坂道があって、それを登れば母校に行けたはずだ。
思い出せば、自然と歩くスピードが上がった。
畦道っていうのは、田んぼを持ってる人様の土地なのよ、だから勝手に歩いちゃいけないのよ。
そんな姉の声までフラッシュバックしてきた。
が、無視して土方は畦道を歩く。
記憶通りのところに坂道を見つけて、今度はそこを登っていった。
夏休みだし、誰もいないだろう。
せめて古株の教職員でもいれば、挨拶ができるんだが。
そんなことを思いながらゆっくりと歩いていると、ふと坂を降りてくる人影が目に入った。
驚いて足を止める。
駅を出て以来、初めて人と出逢った。
向こうも土方に気がついたようだ。
立ち止まっているのが不審なのか、それとも知り合いだと思ったのか、訝しむように此方に近付いてくる。
「ん?」
まさか本当に知り合いだとは。
「総司……?」
その人物がだいぶ近づいてきてから、土方はたまらずに声を上げた。
少しハネた栗色の髪と、透き通るような新緑の瞳には見覚えがありすぎる。
「……?」
眩しくてよく見えないのか、相手は目を細めながら、ゆっくりと近づいてくる。
「ひじかた、さん?」
そして、実にたどたどしく名前を呼んだ。
目の前までやってきた彼は、記憶の中の彼よりも、随分と逞しくなっていた。
最後に会った時も背はだいぶ伸びていたが、服の上からでもわかる、つくべきところに綺麗についた筋肉はまさに大人のそれだ。
見ない内に、すっかり成長してしまったらしい。
土方は、返事の代わりに軽く口角を上げ、ぎこちなく微笑んでみせた。
「うそ…………ほんとに?ほんとに土方さん?よく似た別人とかではなく?」
相変わらずよく回る口だ。
「本当に、俺だよ」
気まずさを隠しながらそう言うと、沖田はポカンと口を開けたまま、暫く立ち尽くしていた。
が、やがて昔の面影を色濃く残した笑顔を浮かべ、腕の中に思いっきり飛び込んで来た。
会わずにいた数年間のわだかまりや気まずさを、無理やり押し払うような大胆な行動だった。
土方はどうしていいか分からずに、困惑して棒立ちするしかない。
「土方さん!土方さんっ!!」
暑い。密着した体からむわんと熱気が上がる。
沖田は暑さなど気にならないのか、まるで戦場から生きて帰ってきたような喜びようだ。
まぁ、戦場というのもあながち間違いではないかもしれないが。
「会いたかった!僕ずっと待ってた!」
「俺も……会いたかった…」
「嘘だ……僕のこと、平気で捨てていったくせに」
総司はやっと体を離した。
故郷のことは思い出しもしなかったと言ったが、あれは半分嘘である。
この、総司のことだけは、いつも頭の片隅にあった。
東京に行くと言った時、一番反対したのは兄でも姉でもなく、総司だった。
怒って喚いて暴れて、誰が宥めても言うことを聞かず、反抗期真っ最中だったこともあって、学校やらご近所やら、村中に迷惑をかけ――そして、あの事件が起きたのだ。
忘れられる訳がない。
数年間どんな思いで総司が過ごしていたのかを、想像するだけでも胸が痛む。
が、土方は向こうに行ってから、一度も彼に連絡しなかった。
思うところあって、手紙が来ても、メールが来ても、一切返事を書かなかった。
土方が感じる気まずさの原因はそれだった。
「…捨てた訳じゃねぇって」
「おんなじことじゃないですか。連絡の一つも寄越さないで、よく言いますよ」
やはり、積年の思い――というか恨み辛みは相当溜まっているようだ。
再会の喜びもそこそこに、総司は早速弾丸のような速さで文句を並べ始めた。
「手紙書くからとか、毎日メールするからとか、まぁ、土方さんのことだしと思って最初から期待もしてなかったけど、だからって、本当に三日坊主だとは思わないじゃないですか。僕、本当に捨てられたんだなって、都会の女の人に毎日呪いを送ってたんですからね」
「何だよ、都会の女の人って」
「知らないけど、土方さんが好きそうな、ボンキュッボンの人ですよ。ハイヒールをこれ見よがしに鳴らして歩いて、伸ばし過ぎの爪にマニキュア塗って、長い髪の毛をたなびかせてるような」
総司の勝手なイメージに、土方は必死で笑いを噛み殺した。
確かにそんな女性はこの村にはいないと思うが、決して土方の好みではない。
「…悪いことをしたな」
「そんな言葉だけで、数年分のツケが返せると思ってるんですか」
「すまなかった、ごめん、許してくれ」
素直に頭を下げると、総司は面食らったように口をパクパクさせてから、何かをモゴモゴと呟いた。
帰ってきてくれたからいいですと言ったような気がして、土方はホッと安堵のため息を吐く。
「これから時間あるか?」
「今、役所から戻ってきたところです。あとはおうちに帰るだけ」
「……邪魔してもいいか?」
実家に荷物を置いた後は、どのみち総司の家に顔を出す予定だった。
その旨を連絡した方がいいか悩んで、やっぱり止めていた。
断られるのが怖かったのだ。
「……………」
総司は何も言わずに歩き出した。
いいよ、ということなのだろう。
土方は慌てて後を追った。
総司が地元の村役場に就職したのは、総司の姉が寄越した手紙で知っている。
そういえばその手紙にも、『総司が寂しがっていますから、どうかメールの一つでも送ってやってください』というような内容が書かれていたような気がする。
「お前、いくつになった」
ただ歩くだけで滴り落ちてくる汗を拭いながら、土方は前を歩く総司に聞いた。
「いくつって……僕もう子供じゃありませんよ。もうバリッバリの社会人なんです。土方さんは中学生までの僕しか知らないだろうけど、ちゃんと土方さんと同じ高校に入って、卒業したんですから」
「バリバリの社会人ってな……そんなに忙しい仕事なのか?」
「忙しいかどうかでバリバリさを測るのってどうかと思いますけど。それ、都会の基準なんでしょ」
総司は一を聞いて十を知る奴だが、同時に一を言われて十を返してくる奴でもある。
久しぶりに聞く早口が懐かしくて、言われている皮肉も気にならないまま、土方は総司の好きに喋らせた。
「結局土方さんも変わっちゃったってことなのかなぁ。だから僕は反対したんです」
「中学生のガキに何が分かるかよ」
突然総司は立ち止まって、クルッと振り返った。
真剣な目でじっと見据えられる。
「分かりますよ。少なくとも、僕は土方さんと離れることなんて望んでなかった。土方さんが、あの時何を考えていようと、ね」
「…………」
何か言おうと思ったが、総司はすぐに踵を返して歩き出してしまった。
仕方なく、土方も黙ってついて行く。
総司とは幼なじみだ。
一緒になって、よくあれこれと悪さをしたものだ。
怒られるのは、決まって七つも年上の土方の方だったが。
お互いに弟分、兄貴分だと思って、一緒に成長した。
いつの間にかそれ以上の感情を抱き始めたことにもお互い気付いていたが、結局気付かぬ振りを決め込んだまま、土方はこの村を去ってしまった。
土方は、総司の気持ちを分かった上で、それでも留まることを選択しなかった。
どうしても、逃げなければならない理由があったのだ。
いつ鑑みても、卑怯な行動だったと思う。
実は今回の帰省には、それらの有耶無耶にしたままの事柄に、けじめをつけるという目的もあった。
土方は暑さの所為だけではない汗を拭って、総司の後ろを歩いて行った。
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