「…ほら。食えるか?」
声をかけられて顔を上げ、運ばれてきたご飯に目が釘付けになった。
「……」
すごく美味しそうだった。ベーコンエッグトーストと、それにサラダまで。
卵は半熟だし、狙い済ましたように、総司の好みばかりが並んでいる。
しかし、総司はそれに手を付けなかった。
いや、付けられなかったのだ。
そんな簡単に気を許せるほど、素直な人間ではない。
この中に毒が入っていないとも限らないし、第一相手の素性もわからず、売られたのだと宣告されたばかりだというのに、おちおち空腹を満たしてなどいられなかった。
それに、頭痛はずっと続いている。
収まるどころか、益々酷くなっているほどだ。
今何か食べたら、きっと吐いてしまう。
やがて、食事に手をつけようとしない総司に痺れを切らして、男が不機嫌そうに口を開いた。
「食わねえのか?」
「……お腹なんか空いてません」
「は…嘘吐くんじゃねぇよ」
「っ……いらないんですっ!」
「食えよ。ぶっ倒れんぞ?」
「嫌だ!いらない!」
総司は勢いよく立ち上がると、頭痛に顔を歪めながらも、男とテーブルから一番離れたリビングの隅に行って、小さくしゃがみこんだ。
ここには居場所がない。
安らげる場所がない。
「おい、お前……総司」
突然名前を呼ばれ、びくりと肩が震えた。
何故名前を知っているのか。
咄嗟に疑問に思ったが、すぐに納得した。恐らく、此方のことは何でも知っているんだろう。
足の間に顔を埋めて無視を決め込んでいると、気配で男が目の前に立ったのが分かった。
「おい、聞こえてんのか」
随分と苛立った声だ。
「……っ何です、か」
「お前大丈夫か?」
聞こえてきた間抜けな質問に、総司は思わず顔を上げた。
自分のことを見下ろしている男は、困ったような心配したような実に複雑な表情をしていて、この人の感情を初めて垣間見たと総司は思った。
何故、加害者のくせに大丈夫かなどと聞いてくるのだろう。
何だか場違いに思えて、つい笑ってしまった。
「…何だよ」
途端に機嫌を損ねる相手を、総司は泣きはらした目で見上げた。
「大丈夫なわけ…ないじゃないですか」
「は…そうだよな」
男も自分の間抜けな質問に気付いたらしく、微かに笑みを湛えた。
「……そういや、自己紹介がまだだったな」
「え?」
急に声色を変えて、目の高さを合わせる為にしゃがみ込んでくる男を、総司は警戒しながら見守った。
「俺は土方歳三だ」
「……ひ、じかた、さん?」
「あぁ。お前とは、今日から暫く一緒に過ごすことになる」
発せられた内容に驚いて、総司は目を丸くした。
「暫く、って……?土方さん、が、僕を買ったんじゃ…ないんです、か?」
すると男―――土方は、一瞬驚いたような顔をしてから、小さく苦笑した。
「そういうわけじゃねぇよ。お前はこれから売られる為に、俺に躾けられるんだ」
「それ、って……僕は、これからまた更にどこかへ売られるってことですか?」
総司は消え入りそうな声で尋ねた。
今時人身売買が蔓延っているのも信じられないが、これは紛れも無く総司の身に降りかかっている現実だ。
「あぁ。ここはお前を調教する場でしかねぇからな。いずれは出て行く日が来る」
調教……あまりにも不穏な言葉が聞こえた気がする。
売られる目的が分からなくて、総司はひたすら困惑した。
「…臓器売買とか、そういうことじゃないんですか?」
「いや……売るのは……身体、だ…」
土方の言葉に、総司は思わず息を呑んだ。
「……もしかして、売られたって……そういう……」
身体を売るなんて、一つしか思い浮かばない。
「売春、ってことですか……?」
ずん、と言葉が胸に響いた。
僕が、売春にかけられるなんて…。
「売春、か…………そういうことだな、まあ」
信じられない。
現実がここまで信じられなかったことは、未だかつて一度もない。
もう、めちゃくちゃに壊れてしまいそうだ。
総司は乾ききった唇を噛んだ。
「……個人的にお前を買いたいって奴が現れねえ限り、ほとんどは風俗店に売られる……まぁ、大体売れっ子になっているが」
「…………………」
どんな目的だったとしても、自分を欲しがる人なんているわけがないと思った。
ということは、風俗店に売られるわけだ。
それで、毎日毎日、見ず知らずの相手に足を開くってことか。
僕は、男なのに。
絶望。
そんな言葉でも足りないほどのこの衝撃を、一体どうやって表現すればいいのだろう。
一体何を呪えばいい?両親?運命?
それとも………神を?
「っ…ふ…ぇ…、っぇぐ…」
涙が次から次へと溢れてきた。
人間ここまでくると、何の感情もなくなるものかな、と思う。
どうせなら酷すぎる事実の方が、中途半端な希望も持たなくて済むし、諦められるというものだ。
もう、悲しいのかも怒っているのかも、さっぱりわからなかった。
どうして今泣いているのかも曖昧だ。
知らず知らずのうちに、身体が震える。
「……っ…」
このまま一生自由を奪われて、誰かの傀儡人形として生きていかなければならないのだろうか。
それだけは嫌だった。
総司はおもむろに立ち上がってテーブルまで駆け寄ると、用意されていたナイフを土方に突きつけた。
「……お前、何してんだ?」
「僕は売られたくないっ!!」
「いや、だから……」
「死にたくなかったら僕を逃がしてよ」
困惑した顔でこちら見つめる土方を、総司は必死で睨みつけた。
「逃がせって言われても……」
総司は無言でナイフを突き出す。
「お前なぁ、そんなもんで人が殺せると思って…」
「殺せる!」
言うや否や、総司はナイフで自分の腕を思い切り切り付けた。
例え包丁でなくとも、力任せに押し付ければ血が出る程度の傷は作れるものだ。
「ぅあ゛ぁっ…!!」
「っ!!!」
鋭い刺激に、一瞬意識が飛びそうになる。
しかし、じわじわと広がる痛みが総司の意識を繋ぎ止めた。
腕に一筋、ぷくりと赤い血が浮き出てきて、ゆっくりと肘の方へと流れ落ちていく。
こんなの、痛くない。
心に受けた傷に比べたら、何千倍も痛くない。
「……ってめぇ何しやがるんだ!」
痛みを堪えていると、慌てて駆け寄ってきた土方に、思い切り腕を掴まれた。
そして、握り締めていたナイフを叩き落とされる。
「ぁっ………」
その剣幕が余りにも恐ろしくて思わず後ずさるのを、土方に物凄い力で阻止された。
「てっめぇ……!!大事な"商品"なのに、何傷つけてくれてんだよ!」
「し、しょう…ひ、ん…?」
「お前は大切な売り物なんだよっ!!傷物にして怒られんのは俺なんだからな!」
総司は血の気が引いていくのを感じた。
商品、って……それ、僕のこと…?
僕は……商品、なの、か………
「や、だ…………」
突然、呼吸の仕方が分からなくなった。
「やだ、っ…やだ…やだやだやだやだぁぁぁっ!!!」
総司は大声で叫ぶと、驚く土方を尻目に、玄関へ向かって一目散に駆け出した。
「総司っ!!!」
開かないことは分かっていたが、爪を立ててドアを思いっきり引っ掻く。
拳を叩きつけ、大声で叫んだ。
「助けて!助けてっ!!誰かぁあっ!助けてっ!!」
五月蠅くすれば、誰かが気付いてくれるかもしれない。
「お願いっ!誰か助けて!」
涙が滝のように溢れ出て、過呼吸のように息が荒くなった。
冷や汗で身体中べとべとになりながら、総司は必死でドアに縋り付く。
刹那、不意に物凄い力で後ろから襟首を掴まれた。
「ぐっ……!」
総司はバランスを崩して、そのまま後ろに倒れ込んだ。
「ここからは逃げられねぇって言っただろうが」
見上げれば、感情の全く宿っていない、底冷えするような土方のそれと目が合った。
「っ……やだ……僕を逃がしてっ!……お願い、だからぁっ!」
「聞けねぇ相談だな。お前の親にはな、組織が大金を支払ってんだよ」
土方は総司を跨ぐようにして、両手で上から押さえつけた。
「お願いっ…しま、す……お金なら…払うから……」
「バカ言うんじゃねぇよ。お前、七億なんてどうやって払う気だ」
「な、七億……っ?」
総司は目を見開いた。
七億と言えば十二分に大金だし、とても負担できる額ではない。
だが、何よりもまず人に値段などつけられないはずだ。
自分には払えないと悟る一方、たった七億で売られたのか、と思わずにはいられなかった。
「悪いことは言わねえから、高く売れるように大人しく躾られてくれ」
土方の無情な言葉に、総司の心はずたぼろに引き裂かれた。
「で…も………僕……いや……自由になりたい…」
「お前には行く場所なんざねぇだろ?」
「っ…でも……!」
「まだ言うのか?……ったく、すぐに逃げ出そうとするわ、身体に傷はつけるわ、とんでもねぇ餓鬼だな」
言うや否や、土方は徐に立ち上がると、総司を軽々と持ち上げた。
「なっ……やめっ!…離して!!」
じたばたと暴れる総司を抱え込んで、土方はリビングへと戻り、ソファの上に乱暴に下ろした。
「待って!やだっ!何するのさっ!」
慌てて起き上がろうとするのを、上から押さえつけられる。
「売られたってのがどういうことか、お前に身体で教えてやるよ」
総司は、冷たく光る土方の目を見上げ、あまりの恐怖に身体を竦ませた。
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