硝子の檻 | ナノ


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思わず自分の耳を疑った。

無理もない。耳に入ってきた言葉は、あまりにも現実を逸脱しすぎていた。


……僕が、…ウラレタ……?


頭は真っ白、耳の奥ではきーんと頭痛を誘うような耳鳴りがしている。


「なに…それ………」


時間が止まったかのように、何も音が聞こえなくなった。

空気が停滞したような、無の時間。

身体が固まってしまって、全く動かない。


「そ、そんな嘘、信じるわけないでしょ。何だってそんなこと……」


総司は辛うじてそれだけ言った。

身体に力が入らない。握り締めた拳が微かに震えている。


「ねぇ……う…嘘、なんでしょ?」

「…………」

「…ど、どうせ身の代金目当ての誘拐なんでしょ?だったらすぐにでも僕を解放した方がいいですよ?…僕んち…お金持ちじゃないし…」


言いながら、溢れ出す涙を堪えることができなくなった。

親が…子供を誰よりも愛し、一番近くにいるべき親が、自分の子供を売るなんてまさかそんな…信じたくない。


「あ、あなた、僕に嘘ついてるんでしょ?前に、テレビで見たもん。誘拐犯って、人質から希望を奪うためにそういう嘘をつくって。あなた馬鹿ですか?僕、これでも高校生ですよ?そんな見え透いた嘘、すぐに…」

「残念ながら嘘じゃねえよ」

「ち、違う!嘘だ………嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁっ!!!」


割れるように痛む頭を抱え込んで、僕は叫んだ。


「そんなこと……あるわけない……嘘だ……絶対に嘘だぁっ!」


目からポロポロと涙が零れ落ちる。

止まらない、止められない。


嘘だという根拠は全くなかった。

寧ろ、自分の今置かれている状況は全て売られたことを肯定しているようで、必死に違うという証拠を見つけようとするのに何も見つからない。

見つけられない。


「や、だ……そんなの…」


泣きじゃくる総司を見て、男は閉口したように眉根を寄せた。

一筋縄ではいかないことくらい分かっていたが、どうしてやればいいのか分からない――そんな顔をして総司を見つめている。


「……ったく…嘘だと思うなら、これを見てみろよ」


男は溜め息混じりにそう言うと、ポケットから折りたたまれた紙を取り出して、総司の前で開いて見せた。

総司は涙を乱暴に拭って、その紙に目を通す。


紙には、売却契約書と書かれていた。

契約者欄には見慣れた親のサインがあって、それと共に拇印まで押されている。


「何、これ……偽装?」


総司が言うと、男は苦笑した。


「こんなの偽装してる暇があったら、もっとマシな嘘をついてるさ」

「………っ……」


何も、言えなかった。

何か言ったら、その途端に自分が崩壊しそうだったのだ。

目が宙を泳ぐ。


「っ…」


悔しかった。

何故、こんな目に合わねばならないのだろう。


「なん…で……」


何で、僕が。
どうして、こんな目に。


すると、男が重々しく口を開いた。


「お前のことはよく知らねぇけど、両親としては苦肉の策だったんじゃねえのか?」


ほら、ここ見てみろ。
そう言って、男は紙のある欄を指差す。


「え……………倒産…?」


そこには、総司の父親の会社が倒産して莫大な借金を抱えた旨が、事細かに書かれていた。


「倒産ともなりゃ、莫大な金が必要だろうしな。それに、お前の親、実の親ではねぇんだろ?」

「なんで…それ…」


総司は驚いて言った。


「そんなの、うちの社員の手にかかればすぐに分かるさ。専門職の奴がわんさかいるからな」


男はどうということなく、さらりと理由を口にする。


「確かに、そう…だけど……でも……」


それでも、今まで十七年も一緒に過ごしてきたのだ。楽しい思い出も沢山ある。

それが一瞬にして覆されてしまうなんてあんまりだ。

全ての笑顔が、愛が、ただの虚構でしかなかったように思えてしまう。


「そんなに…僕のこと……厄介だったの…?」


涙がぽたぽたと零れ落ちる。


「ま、これがお前の運命なんだ。俺はどうしてやることもできねぇし、早いうちに諦めた方が楽だぞ」


運命……そんなもので、簡単に片付けられる問題ではない。

総司が肩を震わせて泣いていると、不意に男が手を伸ばしてきた。

その手を、総司は力任せに払いのける。


「っ触らないでってば!!」


言いながら、総司は思いきり男を睨んだ。


……逃げなきゃ。

咄嗟にそう判断する。

このままここにいたら、二度と自由になれないことは確実だろう。


その一心で身体中の力を振り絞ってベッドから這い出ると、総司はわき目もふらずにドアの方へと走り出した。

否、走り出そうとして、ずきりと痛む頭に平衡感覚を失った。

そのままもんどり打って、思い切り転ぶ。


「痛っ…」

「おいっ!お前…」


視界の端に、男が慌てて立ち上がりこちらに来るのが映って、総司は捕まるものかと必死で立ち上がった。

急に動いたりしたからだろうか、尋常ではない頭の痛みに身体がふらつき、歩くことすらままならない。

それでも何とかリビングと思しき部屋に出て、更にその先のドアの方に走っていこうとしたら、またふらりと身体がよろけた。


「あっ…」


すぐに追いついてきて抱きかかえようとする男の手を、総司は必死で払いのける。

しかし、体格に大差はないにも関わらず、今の総司では到底太刀打ちできそうになかった。


「誰か……!誰か助けてっ!!!」


涙で顔をぐしょぐしょにしながら、ここ最近で一番の大声を出す。


「無駄だ。ここには俺とお前以外誰もいねぇよ」

「!………やだ、ってば!離して!」

「お前、少し落ち着けよ」

「いやだぁぁっ!」


総司は渾身の力を込めて男の手を振り払うと、リビングを飛び出した。


早く…早く外に出て、助けを呼ぼう……


「お、おい!待てって!」


怒声が響いて、思わず身体がびくつく。


いやだ。
絶対に捕まるもんか。


冷や汗で身体中べとべとになりながらようやく玄関を捜し当てると、総司は必死でドアに縋り付いた。


……しかし、ドアはぴくりともしなかった。

内側から施錠されているにも関わらず、鍵が開かないのだ。


「あれ?…あれっ、何で?!」


総司が必死にドアと格闘していると、とうとう男が追いついてきた。


「…っ……」


歩み寄ってくる男から、総司は慌てて逃げようとする。

しかし、後ろにはもうドアしかない。


「お前なぁ、そんな状態で俺から逃げられると、本当に思ってんのか?」

「やだっ…こっちこないで!!」


更に歩み寄ってくる男から、総司は必死逃げようとした。

しかし、頭がくらくらして上手く身体が動かない。


「っ僕をどうする気っ!?」

「少し落ち着けって、」

「いやだっ!あなたは誰?どうしてこんなことになってるの?!」

「…ここからは逃げられねぇよ。いいから、こっち来い」

「やだっ、僕は売られたくなんかない!……売られたくない……んだ………」


尚も抵抗していると、不意に物凄い力で腕を掴まれた。


「ひっ……」


総司はバランスを崩して、そのまま男の胸に倒れ込む。


「なら聞くが、お前に行く場所があんのかよ」


恐怖に震えて見上げる総司に、男は無表情で言った。


「ぁ………」


ない。

既に売られてしまった身なのに、そんなところあるわけがない。

この男の言っていることは全くの真実で、反論の余地など一切なかった。


「でもっ……ふぇ…ぇ…」


涙が滝のように溢れてくる。


「そんなに泣くなよ…ったく」


男は困ったように総司を見た。


「だって………僕…売られたく、ない……」

「いいから、ちょっと休め。な?」


そう言うと、男は総司の肩に手を回して、リビングに連れて行った。



「そこに座ってろ」


総司がぼうっと突っ立っていると、リビングの真ん中に置かれたダイニングテーブルを指差して、男がぶっきら棒に言った。

歩きだそうとして、ふらっとよろける。


「っおい!」


すぐに男が総司を支えて、テーブルまで連れて行った。

総司はおずおずと、四つある椅子のうちの一つに腰掛ける。

それから、男を目で追ってみた。


男はカウンター式のキッチンの向こう側で、慣れた手つきでお皿を取り出したり、お湯を沸かしたりしている。

その全ての動作に、少しの隙も見られない。


あの人は、一体何者なのだろう。


総司は益々身を縮こまらせた。

それから今度は、自分がいる場所をぐるりと見渡してみる。


ここはあの男の家だと言っていた。

随分と広い家だ。多分高層マンションなんだろう。

燦々と日の光が差し込む窓のカーテン越しに、都会のビル群が微かに見える。

全体的に家具の色などが統一されていて、モデルルームのように全く生活感のない部屋だ。

スマート、とでも言えば聞こえがいいのだろうが、そうとも形容し難い、ただ無駄を取り払っただけの空間に見える。


こんなところで、この人は一体何をやっているんだろう……


そんなことを考えながら、総司が必死に割れるような頭痛に耐えていると、やがてパンの焼ける美味しそうな香りが漂ってきた。

思わずお腹が鳴る。


そういえば、学校はどうなったんだろう。

そういうことを考えたら、また嗚咽が漏れそうになった。


もう二度と、平穏な生活が戻ってくることはない。

それは総司自身、嫌でも理解し始めていることだった。




*maetoptsugi#




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