硝子なんて、目に見えないのに。
脆くて、簡単に砕け散ってしまいそうなのに。
なのに何故、
僕は逃げられないんだろう―――。
硝子の檻
凄まじい頭痛と吐き気と共に目が覚めた。
頭が自分の制御下を外れたかと思うほどに、頭全体ががんがんと痛む。
頭の痛みで意識が浮上したと言ってもいいほどだ。
「ぅうー……」
総司はボサボサの頭をがしがしと掻いて、寝返りを打った。
ぼんやりとした思考の中で、まだもう少し寝ていようと自分が言っている。
いいよ、もう少し寝よう。まだ起きる時間じゃないし。学校には遅刻すればいいんだから………。
そこまで考えた時、ふと意識が覚醒した。
強烈な違和感、何かが違うという不安。
あれ――――?
頭は、考えることを嫌がった。
記憶と感情が錯綜し、覚醒しようとする身体とは裏腹に、まだ眠っていたいと思う自分もいる。
……何だか怖い夢に魘された気がした。
そんなことをぼうっと考えているうちに段々と意識がはっきりしてきて、総司はうっすらと目を開けた。
「…んぅ…ぅ、…ぁ…ぁれ…?」
目に飛び込んできたのは、見たこともない景色だった。
総司は、至ってありふれた…いや、普通よりも少しだけ殺風景な寝室のベッドの上に一人寝かされていた。
こんな場所は知らない。
自分の部屋でもなければ、今まで来たことがある場所でもない。
総司は吃驚して身を起こすと、きょろきょろと辺りを見回した。
だだっ広く感じるのは、部屋が広いからというよりは、家具の類が一切置かれていない所為だろう。
総司が今寝ているふかふかのベッドと、頭の横のサイドテーブル以外には何もない。
ベッドはセミダブル以上ありそうだ。ホテルのように部屋の中央に置かれているせいで、何となく落ち着かない。
丁度ベッドの真正面にこれまたごく普通のドア、それからベッドの壁に小さめの窓がついているだけの、本当にシンプルな部屋だった。
朝日……なのだろうか。窓から日の光が燦々と差し込んでいる。
窓の向こうには、見たこともない都会の景色が広がっていた。
まだ夢を見ているのかと、総司はぐりぐり目を擦った。
しかし、五感で感じ取る全ての情報が、これは現実だと物語っている。
「あ、れ………?」
ここは、どこ……?
僕は、どうしたんだっけ……
総司は記憶を手繰りよせようと、必死に頭を動かした。
だが、頭が言うことを聞かない。割れるように痛むのだ。
頭だけでなく、身体もまた鉛のように重たく、あちこちがぎしぎしと軋んでいる。
頭痛の所為なのか、頭がいつまでたってもはっきりと覚醒しない。
まるで、ずっと白濁色の靄の中にいるようだ。
その時不意にドアが軋む音がして、総司は反射的に顔をそちらに向けた。
「………誰…?」
口をついて出た声は想像以上に掠れていた。
その弱々しさに顔をしかめながら、総司は部屋に入ってきた男を見上げた。
刺すようにこちらを見つめてくる、心が全く読み取れない眼。
切れ長で紫石のようなその瞳に、思わず身が竦む。
総司は一瞬ぽかんとしてその男を見上げた。
……何て綺麗。
自分の感じた第一印象に思わず自嘲した。
全く訳のわからない状況に置かれているというのに、何を見惚れているのだろう。
しかし実際、彼は驚くほど端整な顔立ちだった。
「…ようやく目が醒めたみてえだな」
男が徐に口を開く。
少し不機嫌そうで、不安を掻き立てられるような声色だった。
「あ、の……」
じっと見つめられて、居心地が悪くなる。総司は思わず身を竦めた。
それから、相変わらず不鮮明ではあるが、自分の思考回路の中に恐怖という感情を見出した。
言いようのない不安が胸の奥から押し寄せてきて、どうしようもなく怖くなる。
総司が口を開きかけた丁度その時、やにわに男が手にしていたコップを差し出してきた。
「……取り敢えず、これでも飲んどけ」
「え……?」
総司はコップの中身をそっと覗く。
「なに、これ…」
「ただの水だ。別に何も入ってねぇから安心しろ」
総司はまじまじと男を見上げた。
「…何だよ、疑ってんのか?」
仕方ねぇな、と男は総司の手からコップを取り上げると、徐ろにそれに口をつけた。
「……………」
別に疑っていた訳ではなかった。
ただ、この状況に頭がついて行けていないだけ。
「ほら、」
わざわざ毒味までして男がもう一度差し出してくるコップを、総司は恐る恐る手に取った。
声が掠れてしまっているし、出来れば喉を潤したい。
総司は少し躊躇した後に、その水を口に含んだ。
口の中で軽く転がすようにして味を確かめてから、ゆっくりと喉に流し込む。
それをずっと見ていた男は、総司が飲んだのを確認すると、ほっと溜め息を吐いた。
「あの……………」
今の状況を説明してもらおうと、総司が意を決して口を開きかけた時。
またもや男が唐突なことを言う。
「……頭、痛むか?」
急に聞かれて、総司は狼狽える。
「…あ、たま………」
痛いか痛くないかで言えば、この上なく痛い。
「いたい……けど、」
「やっぱりな…お前、かなり抵抗したんだろう。じゃなきゃ、普通クスリまでは打たねぇからな」
「クスリ……?」
その言葉を聞いて、総司は次々と目覚める前のことを思い出した。
「………っ!!!」
思わず頭を抱え込む。
……そうだった。
僕は、誘拐されたんだった。
いつものように遅刻しつつも学校に向かっていたら、突然後ろから頭を殴られた。
咄嗟に身の危険を感じ、必死で抵抗したことまでは覚えているのだが、それから後の記憶が全くない。
時間と空間の経過があったはずなのに、すっぽりと抜け落ちてしまっている。
男がクスリと言っていたが、何かを打たれた記憶すらない。
相当飛んでしまっているのだろう。
クスリというのが何を指すのか、分からないほど子供ではない。
つまり、その所為でこんなにも意識が混濁しているというわけか。
最も、頭の鈍痛は強く殴られた所為、というのもあるのだろうが。
どの道、芳しくない状況であることに変わりはない。
今自分が置かれているこの状況もさっぱり分からないし、あの男が誰なのかも分からない。
……彼は誰なのだろう。
彼が誘拐犯、とか。
その可能性は非常に高い気がする。
だが、こうしてベッドに寝かせ、食事まで与えようとしている辺り、彼に殺意はないと見るのが自然だろう。
あくまでも身代金目当ての誘拐であって、お金さえ手に入れば解放してくれるつもりなのかも。
総司は深々と深呼吸をすると、ベッドに沈み込んで頭を抱えた。
分からない。
どうしてこうなったのか。
何もかもが、謎。
現実は小説より奇なりと言うが、今の状況は奇、どころではない。
現実が、現実を逸脱しすぎている。
「僕、は……ど、して……ここ…」
疑問ばかり浮かんでは、支離滅裂に思考が飛ぶ。
頭が現実に追いついていないのだ。
何で僕はここにいるんだ?
ていうか、そもそもここはどこなの?
明らかに…病院、ではないし、警察でもなさそうだ。
考えているうちに、どんどん恐怖が増していく。
「ここ…は、どこ……?」
総司は焦って問いかけた。
このままでは、何をされるか分かったものではない。
「ここか?…ここは、俺の家だ」
男は淡白に答えた。
………益々訳が分からなくなった。
誘拐犯のアジト、ということなのか。
そもそも、この人は誰―――?
目の前の男が、無性に怖くなった。
「…お前、二日も眠り続けてたんだぜ」
「………ふ、二日間?」
何で、という質問は男によって遮られる。
男は感情の籠らない視線を総司に向け、溜め息を吐いてこう言った。
「腹減ってるだろう。何か食うか?」
「ぇ…?…や、あ、あの……そ、じゃなく…て……」
恐怖ばかりが募っていくこの状況に、総司はとうとう取り乱して叫んだ。
「僕は……僕はどうなったの…?僕を…どうする気っ?!」
威嚇するように睨みながら総司が聞くと、男は不意に手を伸ばしてきた。
その手を、総司は必死で払いのける。
「っ触らないで!!……僕に何をしたのっ!?」
言いながら、思いきり男を睨んだ。
「お前、ちょっと落ち着いて……」
「いいから答えてよっ!一体何があったの!?」
すると、男はやれやれ、とでも言うように溜め息を吐いた。
「大丈夫だ、別にお前を殺したりしねぇから。安心しろ」
その妙に説得力のある物言いに、総司はぐっと眉根を寄せた。
「じ、じゃあ、あなた、は……僕を、助けてくれたひと?」
総司は思わず聞いていた。
そうだといい。
そうであってほしい。
誘拐を阻止して、僕を助けてくれたんですよね――――?
総司は縋るような思いで男に尋ねた。
すると、男の動きが一瞬止まる。
「助けた、だと?」
お願い…違うって言わないで………
「僕、変な人たちに……ゆ、…誘拐されたはずなのに…今はこんなところにいるし……」
「お前、何言ってやがるんだ?」
男は、心底不思議そうに総司を見てきた。
「え?…いや、その…………」
「あぁ……そうか……分かってねぇのか」
「は、い………?」
一人合点して頷く男に、総司は益々混乱して眉を顰めた。
「あの…えっと、…誘拐、じゃないんですか?」
「あぁ、違ぇよ」
男はさも当然だ、という顔で肯定した。
それを見て、総司は思う。
もしかしたら、ただの思い過ごしだったのかも。
道に倒れていたところをこの人が助けてくれた、とか。
よくよく考えてみれば、人質のはずなのに拘束もされていないなんておかしいじゃないか。
誘拐されたはずなのに、拘束もされていないんだから、きっと――――
総司の心に、少しだけ希望が湧いてくる。
…が、それもほんの一瞬のこと。
次の瞬間には、男の口から出た言葉に、総司は絶望のどん底に叩き落とされていた。
「本当はもっと落ち着いてから言おうと思ってたんだがな…」
「は……?」
「いいか、よく聞けよ」
男が総司の目を覗き込む。
総司は震えながらこくこく頷いた。
「お前はな、親に売られたんだよ」
総司は頭の中が真っ白になるのを感じた。
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