誰かが自分に触れているのを感じた。
それは、優しくて温かい、なんだか懐かしいような温もりで。
久しぶりに、安心して眠りに落ちていくことができたような気がする。
総司はゆっくりと目を開けた。
「…………………」
目の前には、いつもと変わらぬ寝室が広がっていた。
あれ、土方さんは、と思って身体を起こしたが、辺りには誰もいない。
開け放たれたままのドアからリビングが見えたが、そこにも人の気配はなかった。
布団を捲って足を見れば、また重たい鎖が填められている。
あぁ、また出掛けたのかと納得して、総司は身の異変に気がついた。
綺麗に、清められている。
昨日のことは、よく覚えていた。
それはもう、嫌というほど。
それで、意識を手放す前に少し思ったのだ。
いくら避妊具を使っていたとは言え、唾液やらローションやらでぐしょぐしょになった身体は、起きたら自分で処理しなければならないはず。
それが面倒で、そして、惨めだと。
それなのに、何故綺麗になっているのか。
総司は青ざめて、ぶるりと身体を震わせた。
(土方さんが、やったんだ………)
自分の知らぬ間に土方が触れたのだと思うだけで、嫌悪感が後から後から湧いてくる。
思わずゾッとして布団に潜り込む。
が、そこに色濃く残る情事の匂いにも耐えきれず、総司は慌ててベッドから飛び出ると、床に力なく座り込んだ。
身体を動かした途端身体中がずきずきと痛んで、掠れた悲鳴が上がる。
昨日、今まで触られたこともないようなところを触られ、嬲られ、土方が乱暴だった訳ではないけれど、合意していないのに無理やり犯されて、何度も何度も死んだ方がマシだと思った。
お願い、嫌だ、もうやめて。
そんな言葉はすべて流されて。
泣き喚いても、決してやめてなんかくれなくて。
その恐怖が、頭の隅にこびりついている。
総司は頭を抱えて床を睨みつけることしかできなかった。
どう抗おうと、現実は変わらない。
「お腹すいた………」
食事も用意して行ってくれないなんて……これは、何かの罰だったりするわけ?
足の鎖をギリギリまで引っ張ってみたりもしたが、この長さでは寝室を出ることすら出来やしない。
大体、トイレだってどうするんだ。
一人で何もできないなど、これ以上に惨めなことがあるだろうか。
総司は鎖を取り外そうと躍起になった。
これさえ取れれば、例え玄関が開かなくとも、窓から飛び降りるなりなんなりして、ここから逃げ出せるはずなのだ。
躍起になってベッドの足に擦り付けたり、思い切り引っ張ったりしているうちに、ようやく鎖の留め金が緩んでくる。
あと一息だと、死に物狂いで鎖を叩いた。
「っ……取れた…!!」
恐らく、数時間は鎖と格闘していただろう。
手がぼろぼろになったものの、何とか鎖を外すことが出来た。
土方の甘さに感謝する。
鎖があるから逃げられない?
……人間その気になれば何でも出来るのに。
総司はよろよろと立ち上がると、吐きそうになりながら立ち上がった。
土方は昼間は帰ってこないはずだ。
しかし、ようやく逃げられるという安堵と、もしここで土方に見つかったら……という恐怖で心がぐちゃぐちゃで、正直息も出来ないほどだった。
一応脱衣所や洗濯機を確認したが、着ていたはずの制服はどこにも見当たらない。
仕方なく総司は着替えることを諦めて、数日間を過ごしたリビングを抜け、玄関までもつれながら走った。
お腹がすいて倒れそうだったが、まだ何とかなるだろう。
玄関を見て、これまた自分の靴がなかったので、やむを得ず、少し大きい土方の靴を拝借する。
それから鍵を開けると、あの日は何をしようと開かなかったドアが、いとも簡単に開いた。
不思議に思わないこともなかったが、構ってもいられないと、総司は外に飛び出した。
25階という高さに驚愕しつつ、エレベーターを待つのももどかしくて、非常階段を駆け下りる。
額から大粒の汗を流しながら、総司は見たこともない大通りに飛び出した。
時刻は真っ昼間。
往来には、当たり前のように人や車が行き交っている。
パジャマ姿のまま、ボサボサの頭でいきなり飛び出してきた総司に、サラリーマンや親子連れがギョッとしたように振り返った。
しかし、総司はそんなことを気にする余裕すら持っていなかった。
こんな場所、僕知らない………。
ここは、一体どこ………?
見知らぬ世界に一人、取り残されたような。
とてつもない孤独が、総司を襲った。
都心と言うに相応しい、高層ビル。
忙しなく変わる信号、クラクションの音。
それら全てが襲いかかってきそうで、急に自分がちっぽけな存在になったように感じる。
「ここ、どこ………」
総司はキョロキョロと辺りを見回した。
通りの名前も、書いてある町の名前も知らない。
せめて何か手がかりが欲しい、と思ったところで、通りの向こう側に交番を見つけた。
あそこに行けば、保護してくれる……!
総司は無我夢中で走り、横断歩道を突っ切った。
「助けてっ!!助けてくださいっ!」
交番に駆け込むなり、恐怖で泣きそうになりながら、必死で助けを求める。
昨日散々泣き叫んだ所為で、枯れ切った声が出た。
当直の警官は、総司の出で立ちを見て、ギョッとしたように腰を上げる。
「どうしました!?」
「僕、僕…あ、…ぁ…ぼ、ぼく……」
ようやく掴んだチャンスだというのに、咄嗟に上手く説明できない。
早く早くと気持ちが急くほど、何も言えなくなってしまう。
「君、少し落ち着いて。ここは安全だからね」
「あ、僕、…あの……」
荒い息を吐き出しながら、警官に出してもらった椅子に座る。
それから総司は、早速と言わんばかりに話し始めた。
「あの、お願いします!僕を助けてください!」
机の向こうの警官に、掴みかかるような勢いで総司は訴えた。
「僕、逃げてきたんです。早く……早くしないと……捕まっちゃう………!」
支離滅裂な総司の言葉に、警官は眉を顰める。
「できれば、もっと分かり易く説明してくれないかい?一体何から逃げてきたんだ?」
「僕、売られたんです…!」
「……………ん?」
警官は、聞き間違えたかのように首を傾げた。
「君、今、売られたって言ったのかな?」
「そう、なんです。信じてもらえないかもしれないけど、でも本当で、……あの、ば、売春に、…かけられた……らしく、て」
警官は、困ったような表情で、今時人身売買なんて有り得ない、冗談はよしてくれ、とでも言いたそうな様子だ。
明らかに、信じてくれていない。
「ほ、本当なんです!今、隙を見て逃げ出してきたんです!」
「……………」
警官は、総司を上から下まで眺め回した。
まさか、僕がこんな格好をしてるからって、変質者だとか思ったりしないよね……?
総司は不安で、どうしたら信じてもらえるのか分からなくて、半ばパニックになりながら、今までの経緯を簡単に説明した。
拉致されて、監禁されて、酷いことをたくさんされたんです。
流石に生々しい行為については話せなかったが、話の中身に嘘偽りはない。
「……で、君は、自分が売られたと思ってるわけ?」
が、警官の受け答えはイマイチ要領を得なかった。
思ってるんじゃない、実際そうなんだ。
いくらそう言っても、何の妄想だ、大人をからかうのはやめてくれと、口にこそ出さないものの、顔にありありと書かれている。
その時、奥からもう一人警官が出てきて、先にお昼もらいます、と会釈をしてまた去っていった。
それを受けて、総司の相手をしている警官は、益々面倒臭そうな態度になる。
「……まぁ…そうだな、まず、名前を教えてもらってもいいかな」
「……沖田総司です」
「年齢は?」
「じ、十七…」
「住所は……」
「ねぇ、そんなことよりも早く助けてください!お願いですから!信じてください!助けてください!」
総司は、いつまでものんびり調書なんかを取っている警官に、痺れを切らして怒鳴り散らした。
「き、君、少し落ち着いて…」
「お願いしますっ…僕……このままじゃ売られちゃうから、…お願い……お願いです、助けてください……!」
と、その時。
「あぁ、総司。こんなところにいたのか。散々探したぞ」
恐ろしいほどに耳慣れた声が聞こえてきて、総司は顔面蒼白になって振り返った。
「………っ!!!」
そこには、いつになく優しい笑みを浮かべた土方が立っていた。
「ぁ……ぁ……」
何故、ここに。
どうして、今。
頭の中を、ありとあらゆる疑問が駆け巡り、そして、絶望が覆い尽くしていく。
総司は全身で震えながら警官に詰め寄った。
「………こ、この人です!この人が、僕のこと、売ったんです!は、早く逮捕してください!!」
「ちょ、君、落ち着いて……っ」
「総司、警察を困らせたら駄目だって、いつも言ってるだろう」
「いつも、なんて………」
至って落ち着いている土方とは対照的に、総司は完全にパニック状態に陥って、叫び声を上げる。
「いつもなんてないくせに!嘘吐かないでよ!」
「総司、落ち着け。ほら、家に帰ろう」
「嫌だぁっ!こっちにくるな!僕から離れろ!や、やだっ!やだっ!」
土方が近付いてきて、暴れる総司の腕を掴む。
「っやだ!離せっ!離せよっ!!」
総司は泣きながら、唖然として成り行きを見守っていた警察に訴えた。
「ねぇ、黙って見てないで逮捕してくださいよ!この人は悪い人なんです!僕のことを監禁してるんです!お願いだから逮捕してください!お願いします!」
「総司、家に帰るぞ」
「嫌だぁっ!あそこはうちなんかじゃない!」
僕は何とかして逃れようと、警官が迷惑がるのにも構わず暴れまわった。
それを、土方が強烈な力で押さえつけてくる。
「あ、あの……どういうことでしょう…?」
困惑した顔で、ようやく警官が訳を問い質してきた。
すると、総司が口を開くより早く、土方がすらすらと説明してしまう。
「こいつは俺の甥っ子なんですが、重度の精神分裂症を患ってまして。妄想癖がすごいんです」
「妄想癖、ですか?」
「ち、違………っ!」
総司は信じられない思いで、土方と、それから警官を交互に見つめた。
まさか、そんな根も葉もないこと、信じるわけがないじゃないか。
「治る見込みもないのに病院に入れておくのも可哀想で、もう何年も俺が面倒見てやってるんですが、どうも、俺のことを犯罪者か何かと勘違いしてるらしいんですよ」
いつも胸が痛くなりますよ、と土方は困ったように笑いながら言った。
警官は、人当たりの良さげに見える土方に、完全に騙されかけてしまっている。
「それはそれは……さぞお辛いでしょうね」
「そうなんです………」
「違う!そんなの嘘だ!!僕は甥っ子なんかじゃない!違う!」
総司は必死で否定しようとしたが、騒げば騒ぐほど土方の言い分を肯定することになり、自分の首を絞めるだけだった。
もはやなす術すら見つけられない。
「ほら、総司帰ろう」
「やだっ…誰があんなところに…っ!」
「……総司」
名前を呼ばれて土方を見上げると、口元には温厚そうな笑みを湛えていたが、目が全く笑っていなかった。
「ひっ…………」
思わず身を竦めると、掴まれた腕にぎりぎりと力を籠められ、土方の方に引き寄せられた。
「やめっ…あ…ぐ…っ!がはっ!」
すかさず抵抗しようとしたら、鳩尾を思い切りど突かれた。
目に涙の膜が張り、息を吐くことも吸うこともできずに窒息しかける。
そのままあまりの痛みに意識が朦朧としていって、総司はパタリと気絶した。
これには流石の警官も慌てて仲裁しようとしたが、土方がいつものことなんだと巧みに説明すると、その余りにも手慣れた様子と、同情を誘うような土方の演技に、警官はころりと騙されて、それ以上事件性はないと判断してしまった。
「では、これから医者が来ることになってますので、失礼します」
「はぁ、どうかお大事に」
「どうも、ご迷惑をおかけしました」
土方は意識のない総司を軽々と担ぎ上げると、足早に警察署を出て、総司の監禁場所へと、元来た道を帰って行った。
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