世の中は夏休み。
学生の僕は宿題なんてもちろんやらないし、要するに暇で暇で仕方ない訳で。
最初のうちは一君や平助たちと毎日のように遊んでたけど、お盆になったらみんな家族旅行だとかでどこかへ行ってしまった。
旅行できる家族なんかいない僕は、そろそろ教師も休みなんじゃないかなーと見計らって、土方さんのうちに突撃した。
七月中は前期の処理でゴタゴタするから、ほぼ学校に居ると言われていたし、忙しいのに悪いかなーってそれなりに我慢していたんだ。この僕が。
そんな訳で、今は自宅に向かって歩いている。
え、何で自宅かって?
なななんとね、追い返されたんだよ、土方さんに。
うん、僕も未だに信じられない。
久しぶりに構ってもらおうと思って、るんるんして玄関先まで言ったはいいものの、急に来るなだの後数日待てだの言われて、気付いたら門前払いを食らっていた。
信じられる?
恋人の僕を門前払いだよ?
みんな夏休みで浮かれてるっていうのに。
僕は何にも楽しくない。
もう僕は怒った。
もう土方さんなんか知らない。
ずっと家に籠もりっきりでカビが生えればいい。
そんなことを思いつつ、ぷんすか道を歩いていたら。
突然物凄い急ブレーキの音がして、何が何だか分からないうちに、僕の頭は真っ白になった。
*
総司が交通事故に遭ったと聞いて、俺は仕事を放り出し、直ちに総司が運び込まれた病院へと駆けつけた。
何でも歩道に車が突っ込んだらしく、総司は突き飛ばされて、頭を強打したのだという。
幸い骨折や腹腔内出血もなく、命に別状はないそうだが、頭のダメージはCTの結果が出てみないことには分からないとか。
どうして突っ込んでくる車に気付かなかったのかと疑問に思ったが、その少し前に酷いあしらい方をしてしまった時の、あの傷ついたような顔を思い出したら、きっとそれを引きずってぼうっとしていたんだろうと合点がいった。
罪悪感でいっぱいになりながら、ICUの中で、青ざめた顔をして眠っている総司を見つめる。
いつ目を覚ますのやら、目を覚ましたとしても回復する見込みはあるのか、心配で何度も吐きそうになった。
事故を起こした運転手の方も重傷らしく、今は警察病院に収容されているそうだ。
意識が戻ったら事情聴取をすると言われたが、半分は俺の責任のような気がして、いつまでも心が落ち着かなかった。
一晩中、まんじりともせずに病院に詰めていたら、総司の意識が戻ったと看護士に教えられた。
慌てて病室に駆けつけて、緩慢な動きで目をぱちぱちと瞬かせている総司の顔を覗き込む。
頭には包帯が巻かれ、見ているだけで痛々しい。
「総司、総司分かるか?」
「……………」
総司はおどおどと俺を見上げ、次いで医者を見上げた。
「沖田さん、分かりますか?ここは病院です。事故に遭ったのを覚えていますか?」
「事故………?」
思い出せないのか、顔をしかめる総司を固唾を飲んで見守る。
「…ここは、病院?」
「あぁ、そうだ。幸い、強い打撲だけで骨折はなかったんだぞ」
手を握って言ってやると、総司はキョトンと俺を見上げた。
「あの………あなた、は?」
「は…………?」
「誰、ですか?」
「……………」
総司の言葉に、その場に居た全員が凍りついた。
どうやら総司は、記憶喪失というものになってしまったらしい。
そんなものはフィクションの世界にしかないと思っていた俺は、文字通り大ショックを受けた。
よく知った相手から誰ですかと言われるなんて、からかわれているとしか思えない。
医者は総司に簡単な質疑応答をしたあとに、難しい顔をして、事故のショックによる一時的なものだろうから、ひょんなきっかけで思い出すだろうと言った。
「じゃ、じゃあ、総司は暫くは俺のことを思い出せないままってことか?」
「まぁ、そうなります」
「もしかしたら………一生思い出さないかもしれねぇのか……?」
「…その可能性は少ないですが……有り得ないとは言い切れません」
「……………」
俺は絶句して総司を見つめた。
先ほどの質問で、総司は自分の名前も年齢も分からなかった。
ひょんなきっかけでと言われても、どこに転がっているか分からないものを、どう拾えばいいというのだ。
もし、この先一生総司が俺のことを思い出さなかったら。
そう思っただけで心の底からぞっとして、卒倒してしまいたくなった。
「恐らく沖田さんも不安な日々が続くでしょうから、どうか支えてあげてください」
医者はそう言って出て行くが、治るかどうかも分からないのに支えろとは無責任な話だ。
俺は不安だのショックだのに押しつぶされそうになりながら、何も分からない総司の手をただ握り締めていた。
外傷が治ったところで、総司はすぐに退院になった。
日常生活に支障をきたすような記憶障害はないものの、今のこいつは赤ん坊と同じような状態だ。
理性はあるのに自分のアイデンティティが一切失われるなど、外国で一人置き去りにされるより不安だろう。
俺がしっかり守ってやらねぇと、なんて使命感にかられながら、怯えられないように、おそらくは空前絶後の優しさをもって話しかける。
「総司、今からお前のうちに帰るからな」
総司は、総司と呼ばれることにすら暫く慣れなかった。
総司といくら呼びかけても返事をせず、肩を叩いて初めて気が付いた、なんてことが病院ではザラだった。
が、毎日世話されているうちに、自分の名前は総司だと無理やり認識したらしい。
そして、どうやら頼れるのは俺だけだということも悟ったようだ。
元々表情が乏しく怒りがちな俺は、最初こそ怯えられていたものの、退院する頃には、とりあえず当面の保護者としては受け入れてもらえた。
本人が喜んでいるかどうかは別だが。
「僕は、一人暮らししてたんですか?」
「いや、ほぼ俺と一緒に住んでた」
「…………ほぼ?」
「えーと…一応お前にはお姉さんと住んでた家があるんだが、病院で言った通り、お姉さんは最近海外に転勤になっちまったから、俺が暫く面倒を見ることになってて、……一々家に通って世話を焼くのも面倒だしな。仕事が忙しい時以外は、大体俺の家で生活させてたんだよ」
正しくはないが、嘘でもない。
正確には、"恋人だから"どうせなら一緒に住もうという流れになった。
「……あの、ひ、ひじ、かたさんと、僕って、どういう関係なんですか?看護士さんたちが、ひじかた、さんは、教師だって言ってましたけど、…一緒に住んでたって……」
「俺たちは、………幼なじみなんだ。総司の両親は小さい時に亡くなってるし、お姉さんもいないとなれば、保護者は俺ぐらいしかいねぇからな」
「幼なじみ………」
「まぁ、それと同時に教師と生徒でもあるから、一緒に住んでることは一部の奴にしか言ってなかったが」
「……………」
「どうだ、何か思い出せそうか?」
総司は黙って顔を振った。
そりゃあそうか。
いきなり色々言われても、今の総司にとってはただの他人事だよな。
やはり、恋人だったと言うのは伏せておいて正解だっただろう。
「そうだ。通り道に、お前の好きなパフェの店があるんだ。良かったら、寄っていかねぇか?」
そういえば、夏休みになったら連れて行ってやると言っていたのを忘れていた。
記憶喪失でもないのに、いつの間にか忘れて無碍にした約束がいくつあることか。
きっと、この間だって、総司は構ってほしくて俺の家に来たに違いないのだ。
それなのに門前払いするなど、どんなに責められても文句は言えないだろう。
「パフェ?」
「パフェ、は分かるだろ……?」
恐る恐る聞くと、総司はムッとした顔になった。
が、失礼だと思ったのか、すぐに表情を引っ込めてしまう。
あぁ、これじゃあ"ふりだしに戻る"状態だ。
いや、ふりだし以前に、サイコロすらない状態かもしれない。
ふりだしの頃は、いっそ憎らしいほどに突っかかり、いいようにからかわれていたのだから。
苦労して、やっとのことで捕まえた恋人だってのに。
こんなの拷問だ。死刑宣告だ。
いやでも、すべては総司が記憶を取り戻すまでの辛抱だ。
一刻も早く総司が元に戻るように、精一杯努力すればいい。
そんな悶々とした思いを巡らせている俺の横で、総司はパフェが食べたいと大きく頷いていた。
パフェで記憶が戻るんじゃないかと思った俺の目論見は、大失敗に終わった。
総司が好きだった味を全て注文してやったのだが、半分は俺の腹に収まることになったし、総司は美味しいと喜んだだけだった。
まぁ、記憶がなくなってからこっち、総司の笑顔なんてちっとも見ていなかったから、それが見られただけでも儲け物だと思うことにする。
「僕、甘いものが好きみたいです」
店を出た後遠慮がちに言ってみせた総司の笑顔が、頭にこびりついて離れない。
「ここが、俺の家だ」
マンションにつき、玄関の前で一応紹介してから中に促す。
お邪魔します、なんて言う総司に胸が痛くなったが、焦ってはいけないと自分に言い聞かせる。
ここがトイレで、ここがキッチンで、なんて紹介していたら、総司が洗ってあったマグカップに目を留めた。
それは、総司が持ち込んだ、猫の顔と尻尾がプリントされたお気に入りのマグカップだった。
「これ…………」
「どうした?まさか、覚えてるのか?!」
つい熱くなって詰め寄ったが、力なく首を振られてがっかりする。
「すいません……僕、覚えてないです…」
「そうか……そうだよな…悪い」
「いえ…でも、可愛いこれ」
「総司のお気に入りだったからな」
「へぇ………」
俺は総司が小さく「本当に僕ここに居たんだ」と呟くのを聞いた。
聞こえなかった振りをして、洗面所に歯ブラシが二本あることや、総司用の漫画や雑誌が置いてある場所もそれとなく指し示してやる。
それから最後に寝室へ行って、クローゼットの中身を見せてやった。
「あ……これ、僕の服、ですか?」
サイズで分かったのだろうが、総司はTシャツやパーカーなんかを引っ張り出しては俺に確認してきた。
「その段は、全部総司のだ」
ベッドに腰掛けて教えてやると、振り返った総司が、突然ギクリと固まった。
「あの………」
「ん?どうした?」
「あの………ベッド…何で……」
「は?ベッド?」
「何で、一つしかないんですか……?」
「………………」
俺は何も言えなかった。
もっともだ、総司。
その質問は的を射すぎている。
「……布団でも敷いてたんですか?でも、ほぼここに住んでたならベッドくらい…しかもそのベッド、サイズ大きい…し………」
「いや、その………言いにくいんだが、ほら、……俺たちは幼なじみだろ?お前が気にしないって言うから…」
「一緒に寝てたんですか……?」
「あぁ…」
悪いが、ここはお前の所為にさせてもらうぞ、総司。
そうじゃないと、お前の何か大切なものを傷つけてしまいそうだ。
それに、俺は怖い。
例え記憶をなくした所為とはいえ、恋人だったと告げて、総司に拒否されるのが。
男同士なのにとか、…こんなおじさんとは嫌だ………なんて言われたりしたら、自殺するかもしれない…。
「そう、ですか………そんなに、仲良かったんですか…」
「まぁ、」
ちらりと総司の顔色を伺うと、思い出せないことを苦しんでいるのか、その表情は険しい。
「…もし嫌だったら、予備の布団があるし、何なら俺はソファで寝ても構わねぇからな」
「い、嫌じゃないです……でも…そうだな……これだけ広いし……端で寝れば、ぶつからなさそうですね………うん、大丈夫です」
分かってはいた。
分かってはいたが、面と向かって暗にくっつきたくないと言われたら、俺のテンションは地に落ちた。
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