ねぇ、と袖を引っ張る総司に、生返事を繰り返す。
「ねぇ」
「んー?」
「ねぇ」
「ん、あと少し」
「ねぇ」
「…………」
「ねぇってば!」
とうとう堪忍袋の尾が切れたのか、総司が読んでいた新聞紙をぐしゃぐしゃにしやがった。
これで新聞紙はお陀仏だ。
「ったく……何すんだよ」
あまり怒りたくもないので軽い溜め息で済ませると、横でごろりとデカい図体を転がしていた総司の頬がぷくーっと膨らんだ。
「………拗ねんなよ」
膨れた頬を指でつんつんとつついてみる。
この弾力。これがたまらない。
「新聞なんか嫌ーい」
最早ただの紙屑と化した新聞紙を、総司は顰めっ面で遠くに追いやった。
記事の続きが気になったが、政治がどうだとか、今はあまり関係ないかもしれない。
目の前の百面相を見ていた方がよっぽど楽しい。
「そりゃ、総司はこんなの読まねえもんな」
「………だからと言って子供じゃないですからね?」
「じゃあ読んでみるか?」
背伸びしたがる子供を少し怒らせてみようと思い、敢えて挑発するような言葉を掛ける。
すると案の定総司の瞳が怒りに染まった。
そしてちょっぴり悲しそうだ。
「………もういーです。僕がちっこい字なんか読みたくないの知ってるくせにすぐそうやって試すようなこと言うんだから……」
面白くなさそうにぼそぼそと呟く総司の顔を、俺はじーっと眺める。
睫毛が長いだとか、瞬きする度に音が聞こえそうだとか、少し尖った唇を吸ってやったらどんな反応をするんだろうかとか、俺の頭にはそんなことばかりで総司の話などまるで聞いちゃいない。
「もう………何考えてるのかなぁ」
またムスっと不貞腐れたような顔をする総司に、だがしかし俺は全く違うことを言った。
「今日、どこか出掛けるか?」
「はぁ?急にどうしたの?」
「いや……構ってほしかったんだろ?」
「別にお家でもいいですけど」
構ってほしかったところは全く否定しないんだな。
でも、あの「ねぇ」攻撃からして絶対そうだとは思っていた。
「どこか連れて行ってやるよ」
俺はローテーブルに手を伸ばして煙草を掴みながら言った。
「どこでも?」
「ん、どこでも」
ジュッとライターに火を灯し、煙を胸に深く吸い込む。
「はい、肺ガン決定」
すかさず突っ込む総司に、何と言い返せばいいのかわからない。
「お前なぁ…せっかくの一服が楽しめなくなるだろ」
「なんだ、罪悪感感じてるならやめればいいじゃないですか」
そういう問題じゃないんだよなぁと思いつつも、総司が心配しているだけなこともちゃんと分かっている。
分かりにくいが、そこが総司の可愛さの一つだ。
「んで、どっか行きてぇとこはねぇのか?」
「どっか行きたいとこ……?」
うーん、と首を捻って考え出した総司に、因みに、とくぎを差す。
「予め言っておくが、お前がダーツバーだのビアガーデンだのに行きたがったところで、俺は大人な選択だとは思わねえからな」
「んな!」
「まぁ、お前が遊園地だの水族館だのに行きたがったって、お子様だとも思わねえけど」
言いたいことを言い終えてから、俺は再び煙草をくゆらせた。
総司は妙に背伸びしたがる。
幼なじみとしてずっと一緒に成長してきた総司は、その年の差の所為もあって俺にとっては謂わば弟のようなものだ。
しかも年上の特権として、俺はまだよちよち歩きの総司も見ているわけで。
弟がいつの間にか恋人になっていただけの違いで、そういうイメージや認識は大して変わらない。
子供扱いをしてしまって当然なのだ。
だが総司は、余程年の差を気にしているのか、はたまた子供だと思われたくないのか、気にする必要はないと何度言ったって、頬を膨らませるという何とも幼い表情で、僕は大人だから気になんかしてませんと言う。
そのアンバランスさが俺は好きだ。
情事の最中やふとした表情の中に大人になった総司の艶やかさを見ることもあって、何度もドキリとさせられているし、そのギャップがまた魅力なのだ。
だからそのままでいいと思うのに、別に子供だからって嫌いにはならないのに、総司はどうしても肩を並べたがる。
まぁ、そんな風に健気に努力しているところを見れるのも楽しくはあるのだが。
それとこれとは話が別だ。
「お前が本当に行きたいところを言えよ」
ちらりと顔を見ると、図星を指されたことが余程悔しかったのか、真っ赤になって唇を噛んでいた。
少しからかいすぎたか。
「そういや、この前CMやってた映画、見たいって言ってなかったか?」
助け舟を出してやると、総司はふるふると首を振った。
どうやらお気に召さなかったようだ。
「…ていうか、トシさん僕なんかに付き合ってていいんですか?いつもは仕事仕事って休日も忙しそうにしてるじゃないですか」
「じゃあお前は俺に仕事してほしいのか?」
「……そうは言ってないですー」
総司はまたむすーっと不貞腐れる。
「そうじゃなくて、いつも忙しくて疲れてるなら、お家でゆっくり休んでくださいって言ってるんです」
さっきのあの台詞からそれを読み取るには、相当な読解力が必要だと思う。
俺は相変わらずべたぁっとフローリングに寝そべっている総司の頭をぽんぽんと叩いてやった。
「そういう心配は結構だ。俺はこれでもなかなかタフなんでな」
「…知ってます」
「ならほら、早く言えよ。いつもみてぇに我が儘言やぁいいだろ」
「そんなこと言ったって、我が儘だってそう易々とは降りてこないんですよ」
「じゃあ何だよ、今は我が儘の降臨待ちだってのか?」
んなバカな話があるか!と心の中で突っ込みつつ、たまには甘やかさせてくれよ、と言ってみる。
「ぶぶっ…その降臨待ちって何ですか?訳わかんない」
そう言いながらも楽しそうにくすくす笑う総司を見て、俺も楽しい気持ちになった。
と思ったのも束の間。
「ん〜、そうだな……じゃあ、僕トシさんのお姉さんのお家に行きたいです」
総司の口から出た言葉に、俺は頭をガツンと殴られたような衝撃を感じた。
*
総司が家に来るのはもう何度目だろう。
両手で数えられなくなった頃から数えるのをやめてしまった。
「きゃー、いらっしゃーい総司くん!」
「お姉さんこんにちは!」
門をくぐるなり、久しぶりの再会を悦ぶ姉貴と総司。
俺はといえば、先ほどまでの幸せな気分は一転、何でせっかくの休日を姉貴なんかに邪魔されなきゃなんねぇ、と怒りすら湧いてくる始末だ。
あれから「それだけはダメだ」と何度言い聞かせても総司の奴は「お姉さんの家に行きたい!」の一点張りで、俺はあの手この手で何とか阻止しようとしたのだが、「どこにでも連れて行ってくれるんでしょ!」と、とうとう姉貴の家に来る羽目になってしまった。
姉貴の家はとっくに他界した両親からの姉夫婦への遺産で、つまるところが俺の実家だ。
いつものマンションとは違う平屋造りの日本家屋を総司はえらく気に入っていて、部屋に通されるなり畳の上できゃっきゃきゃっきゃとはしゃぎ始める。
俺にとっちゃ新鮮みの欠片もない場所だし、何も面白くねぇ。
「二人ともいつも通り歳三の部屋使ってね」
「はぁーい!」
「いや、別に泊まるわけじゃねぇし…」
「あら何よ。明日もどうせ休みなんだから泊まっていきなさいよ」
「…………」
有無を言わさぬ姉貴の態度は筋金入りだ。
正直俺は、この人にだけは逆らってはいけないと思っている。
「総司くん、今日のお夕飯は何がいい?」
聞いたこともないような姉貴の猫なで声と、にこにこと笑顔の大安売りをする総司に、殺人衝動まで湧いてきた。
姉貴は、俺とは違って不貞不貞しくない総司が大好きなのだ。
こんな可愛い弟が欲しかったわぁといつも俺に当て付けてくる。
「えっ、僕が決めていいんですか?」
「当たり前でしょ?総司くんは大事なお客様なんだから」
「えーと、じゃあハンバーグで」
回答の速さとその内容に、俺は軽く鼻を鳴らした。
「むー、今トシさん鼻で笑ったでしょ?」
「いや、そんなこたぁ……」
「だいじょうぶよ総司くん、歳三だってずっとハンバーグが大好きだったんだから」
「なっ…」
「えぇ?意外!すっごく意外!」
あぁ……またからかわれるネタが出来てしまった。
「そういえば総司くん、みっちゃんは元気?」
「えー?あー、元気です元気です」
みっちゃんというのは総司のお姉さんのことだ。
毎日俺ンちに入り浸りでろくに会ってもいないだろうに、適当に返事をする総司に笑みが漏れる。
みつさんも幼い頃からしょっちゅう総司と遊びに来ていて………あぁ、あの人も相当恐ろしいんだった。
特に、俺の姉貴とタッグを組む時は無敵だ。
「久しぶりに会いたいなー。ねぇ総司くん、私が会いたがってたって伝えといてね」
「はーい、………多分」
会うなら二人きりで会ってくれ、と思ったのは案外俺だけじゃないらしい。
見れば姉貴にもよく懐いているはずの総司の顔が微かにひきつっていた。
「じゃ、総司くん夕飯できるまで待っててね」
「はーい!」
「………………」
「それから歳三は早くその機嫌の悪さを直してね」
「………………」
にこりと笑いながら部屋を出て行く姉貴にぐうの音も出ない。
本当に恐ろしい人だ。
嵐が去っていって静かになった部屋の中、俺はようやく総司を取り返して両腕に閉じ込めた。
「なにしてんですかもう」
そう言ってペしんと手を叩いてくる総司は無視して、そのままごろりと横たわる。
「う、わ、もう…離してくださいよ」
「やなこった。貴重な休日なんだ。そうじゃなくても姉貴なんざに邪魔されてるっつうのに、これ以上一緒にいねぇでどうする」
「うわ、醜い!大人の嫉妬醜い!」
「うっせ」
そのままよからぬことをしてやろうかと企んでいると、不意に廊下から足音が聞こえてきた。
俺は別にそのままでもいいと思ったのに、一瞬の隙に総司が腕をすり抜けていってしまう。
「歳三〜!」
「あぁ?んだよ」
慌てたように舞い戻ってきた姉貴に、俺は思い切り顰めっ面を向けた。
「あんた、総司くんに手を出さないようにね!」
「な………………」
それだけ言うと、姉貴は来たときと同じように颯爽と帰って行った。
「………だって。土方さんどうします?」
呆気にとられて身じろぎもせずにいると、総司がにやけながらそんなことを言ってきた。
「…ど、どうもしねぇよ!」
俺は頭をがしがしとかいた。
それから夕飯に呼ばれるまで、総司はずっと部屋の押し入れを引っ掻き回して遊んでいた。
中には俺のよれよれの制服やらランドセルやらが所狭しと押し込まれている。
俺にとってはただの恥でしかない。
「わー!このリコーダートシさんの?」
「おい」
「……舐めてもいい?」
「おい!」
何年も埃を被っていたリコーダーを吹こうとした総司から慌ててそれを取り上げたり。
「わー、この漢字練習帳もトシさんの?」
「っ見るんじゃねぇ!」
「ぎゃはは下手くそな字ー!」
「今のお前よりましだ!」
「えぇ!?それは流石にない!」
早く捨てちまってくれと何度言っても聞き入れてもらえない過去の逸品たちを端から掘り返されて、実にくだらない攻防戦を繰り広げたり。
最終的には見ても思い出せないような、古いラブレターまでも発掘されて、総司に散々おちょくられた。
「とし三くんのことがすきです。とし三くんは、わたしのことすきですか?おへんじ待ってま………」
「読み上げんな!今すぐ捨てちまえ!」
「ねぇねぇ、この花子ちゃんて今どうしてるんですか?」
「さぁな。知ったこっちゃねぇよ。結婚して、ひょっとしたらもう母親になってるかもしれねぇな」
「ふぅん………気にならないんだ」
「今はお前がいるからな」
けろりとそんなことを言ってやると、総司の顔が文字通りぶわっと赤くなった。
「……っ、も、もう!ズルい……!」
▲ ―|top|tsugi#