真っ白な部屋。
剥き出しの天井。
規則正しく並べられたその模様をそこはかとなく眺めるだけで、何一つ考えない日々。
清潔ではあったが、窓が一つあるだけのその部屋には、何となく圧迫感と威圧感が漂っていた。
自分にのし掛かってきて、今にも閉じこめようとするかのような、閉塞的な空間。
閉塞的なのは当たり前だ。
自由など一つもないのだから。
唯一自由に動かせる頭すら、最早その機能を放棄している。
何も考えたくない。
小窓の向こうの空は、今日もどんよりと曇っていた。
外の世界から切り離されて、一体どのくらいの時間が経過したのだろう?
そういえば、ここには時計もカレンダーも何一つない。
まるで、世界から一人きり取り残されてしまったかのような、そんな錯覚。
僕は今どうして、生きているんだろう?
両手首に繋がれた拘束具を見ながら思う。
その時突然ドアの向こうが騒がしくなり、誰かの泣き声や狂ったような叫び声が聞こえてきて、それからこの部屋のドアの鍵ががちゃがちゃと鳴り出した。
ここでは何もかもが突然起こる。
突然ドアが開いて、突然取って付けたような笑顔を浮かべた白衣の天使が入ってくる。
「総司くん、おはよう」
「…………」
「今日もいいお天気ね、」
どこがどう"いいお天気"なのか、もしよかったら教えてほしい。
「総司くん、まずはお熱計ってね」
熱なんかない。
風邪すら引いてないのに、あるわけがない。
しかし看護士は無造作に僕の耳に体温計を突っ込むと、三秒もかからずに体温を計ってみせた。
「うーん、36度か…ちょっと低いね」
僕は何もない空間をじっと見つめていた。
「お部屋、寒い?」
お部屋?
牢屋の間違いでしょ。
「朝食食べれば上がるかな」
一人で解決すると、看護士は廊下の巨大な温飯機から僕の朝食を運んできた。
「はい、全部食べようね」
何も言わないうちから、看護士は僕のベッドのリクライニングを弄り始める。
そして上半身だけ起こされたところで、離乳食のように味気のないご飯を、無理やり口に入れてきた。
少しでも抵抗すれば、"合法的に"電気ショックだのなんだので痛めつけられるから、僕は黙って口を開ける。
ほんの少ししか開けないのが、せめてもの抵抗だ。
「はい、よくできました」
そりゃあできるって。
赤ちゃんじゃあるまいし、僕はいたって正常なんだから。
僕は心の中で自嘲した。
食べ終わると、看護士はベッドから拘束具を取って、代わりに僕の両腕をいっぺんに括った。
それからもう一人看護士がやってきて、二人がかりで僕を車椅子に乗せる。
外に出ると、途端に喚き声が激しくなった。
誰のものかは分からないけど、抵抗して暴れる音や、泣き叫んでいる声が鼓膜をビリビリと刺激する。
連れて行かれたのはお風呂場だった。
二日に一回、こうして無理やり身体を洗われる。
これまた抵抗したら酷い目に遭わされるから、涙が出るほどごしごし強く擦られても、何も文句は言えなかった。
身体が綺麗になると、僕はまた二人がかりでベッドに連れ戻された。
それから手首の生々しい傷跡に薬を塗りつけ、包帯を巻かれてから、また元通り拘束された。
「じゃあ、診察の時間になったらまた来るね」
そう言って看護士は出て行った。
またがちゃがちゃと鍵の閉まる音がして、廊下の叫声が遠くに聞こえるだけになる。
まるでBGMのようなそれにも、もう慣れてしまった。
伊達に半年もここにいない。
ここに入れられた当初は、ずっとこれを聞いていたら、狂っていない人まで狂い出すのではないかと思っていた。
でも、そんなことはなかった。
僕はどこまでも正常で、狂いたくても狂えなかったんだ。
いっそのこと本当に発狂してしまえたら、どんなに楽だっただろう。
僕がここに入れられたのは、何度も自傷行為を繰り返したからだ。
僕は、生まれた時から無痛症だった。
痛覚が欠落しているのだ。
子供の頃ガラスを踏んづけて踵を切った時、血が出ているのに全く気がつかなかった。
熱湯が飛んで、手に水膨れが出来るほど大火傷を負ったのに、自分には何の自覚もなかった。
どちらも、周囲に言われて初めて気付いたのだ。
それで、何かがおかしいと心配した姉さんが病院に連れて行って、そこで初めて発覚した。
指を切っても痛くない。
病気になっても体の痛みは感じない。
何かが触れている、という感覚はあるのだが、それが痛みに直結することはまずない。
何となく何かが体に当たっているという、ふわふわした感触だけを感じる。
熱湯を浴びたとしても、冷水を浴びたとしても、僕にとってそれはただの水でしかないわけだ。
もちろん食べ物の辛さなんて感じたこともないし、怪我をして泣いたことも一度もない。
それは謂わば、生きている実感が湧かないのと全く同じことだった。
痛みがないなんて、屍と同じだ。
体から精神だけが離脱して、感覚ごとどこかに置き忘れてきてしまったかのような、そんな喪失。
人間であって人間じゃない、生きているようで、実は死んでいる。
そんな二律背反を抱えて、僕は今まで生きてきた。
一度でいいから、痛みを感じたい。
冷たい、熱い、鋭い、鈍い…そういう感覚を味わって、生きていると実感したい。
僕がそう思うようになったのは、至って自然なことだったと思う。
だから、僕は自分を傷つけ始めた。
何度も繰り返せば、そのうちに一回くらいは何か痛みを感じるようになるんじゃないか。
そんな、有りもしない希望に縋って。
何度も何度も、体の至る所を傷つけた。
それは自傷行為なんていう範疇のものじゃなく、リストカットに始まって、何回も飛び降りたし、体中傷だらけになった。
繰り返しているうちに、もういっそ死んでしまおうとも思った。
そうしたら、痛みなんか感じる必要のない、本物の屍になれるから。
けど、いつだって僕は運が悪くて早くに発見されてしまい、必ず助かってしまう運命にあった。
今度こそと思っても、目が覚めると必ず病院の白い天井を見上げている。
しかも最後なんて、気付いたら精神病棟にいた。
何度も病院に運び込まれる僕を見かねた医者が、僕を精神病棟に閉じこめてしまったのだ。
それで、一人ぼっちで精神病棟に入れられて、僕は何のために生きているのか全く分からなくなった。
それでも最初のうちは今みたいに拘束もされていなかったから、僕は何度も脱走を試みては捕まって、捕まってはまた逃げて、というのを飽きることなく繰り返していたんだけど。
ベッドに縫い付けられれば全力で暴れたし、与えられる食事や薬も全て拒否した。
だけど、そういうことをすると危険因子とされ、電気ショックや鎮静剤を打たれて意識を失ってしまう。
そして目が覚めると、無機質な病室――もとい牢屋のベッドにまた寝かされているのだ。
最初は大部屋、次に二人部屋、最後はとうとう出入り口の閉ざされた個室になった。
しかも、二度と自殺行為を起こせないよう両手を拘束され、自分では何もできない状態で軟禁生活を送る羽目に陥った。
僕は少しも狂ってないのに。
ただ、生きているという実感が欲しかったから、痛みを得ようと死に近付いてみただけなのに。
どうして閉じ込められ、拘束されてまで、無駄に生きなきゃいけないんだろう。
これほどまでに死にたいと思っている人間を生かしておくのがどれほど残酷だか、周りの人間は誰も分かってくれない。
僕は、生きている意味が全く分からなくなった。
それからの僕は一気に大人しくなった。
どうせ死ぬことは叶わない。
なら、もう何をしても無駄だと諦めたからだ。
そう思って、僕は人形みたいな生活を送り始めた。
食事も着替えもお風呂もみんな看護士さんがやってくれて、僕は言われたとおりに口を開けたり腕を上げたりすればいいだけ。
…なんて人生だ。
一体いつまで僕はここに閉じ込められているんだろう。
珍しく考え事をしていたら、不意に僕の部屋の鍵を開ける音が聞こえてきた。
「総司くん、診察の時間よ」
僕が抵抗しなくなってから、怖いなんてものじゃなかった看護士たちの態度も、手の平を返したようにがらりと豹変した。
優しく、一人の人間として扱ってくれるようになった。
いや、人間というよりは、まるで女の子が人形相手にままごとをしているような感じだけど、それでも前よりはましと言うものだ。
今もまた、甘ったるい声で僕に話しかけてくる。
「今日からね、新しい先生なの」
その言葉に、僕は首を捻って看護士を見た。
どうせ何の反応も示さないだろうと思っていたのだろうか、看護士は驚いたように目を見開いている。
「あら……気になるの?」
「………………」
僕はふい、と顔を背けた。
気になるのか、と聞かれれば、そうじゃないと言いたくなる。
先生だって、もう何度変わったか分からない。
こんなの珍しいことじゃない。
「新しい先生はね、まだお若いのよ」
僕には構わずベッドを起こしながら、看護士は話し続けた。
「今までの先生は、お年を召していらしたでしょ?今度の先生は、まだ28歳で、それに…」
何故か看護士は頬を赤らめた。
不思議に思って、密かに看護士を盗み見る。
しかし、ノック音がした途端、顔を逸らされてしまった。
「あら、先生がいらしたわ」
看護士が立ち上がり、ガチャリ、とドアが開いて、新しい先生とやらが入ってくる。
僕はその顔を見て息を呑んだ。
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