※温いですが暴力・血表現などありますので苦手な方は閲覧をお控えください。
早春の夕刻。
大分日が延びてきたとはいえ、既に辺りは薄暗くなってきている。
遠くの方で小料理屋などが提灯に灯りを入れ、京の街が昼間とはまた違う、雅な色彩を織りなし始めた頃。
土方は所用帰りに、地理に明るくなる目的も兼ねて、京の街を散策していた。
どの道がどこに通じているかを把握するのはもちろんだが、それだけでは不十分だ。
どこの家には匿ってもらえるか、どこの庭に抜け道があるか、そこまで知っておかないと、細い路地裏で斬り合いになった時に分が悪くなる。
まだまだ慣れない京の街の、雅ながら余所者を寄せ付けない雰囲気に戸惑いながらも、土方はのんびりと歩を進めていた。
と、その時。
突然、誰かが路地裏の方を全速力で駆け抜けていくのが目の端に映った。
続いてそれを追うように、複数の人影が道を横切る。
(ん…?何だ?)
何かあったのかと、土方は咄嗟に脇差しに手をかけた。
(鬼ごっこでもしてんのか?…………なわけねぇよな…)
土方は自分のくだらない考えを一蹴した。
京の街が、碁盤の目のように整備されていることはすでに心得ている。
土方は方向さえあっていれば追い掛けることも可能だろうと、先ほど誰かが駆け抜けていった方へと足早に進み出した。
(………でも…追い付けるわけがねぇしな…一旦屯所に戻って、皆に何があったか聞く方が懸命、か…)
土方は抜け目なく辺りの様子に気を配りながら、冷静な判断で屯所へと足の向きを変えたのだった。
*
(まずいな……これは本格的に迷った)
慣れないことはするものじゃないと、総司は困り果てて立ち尽くした。
今のうちに京の街に慣れておけと土方に言われ、暇を弄んでいた総司が屯所を出たのは正午過ぎのことだった。
地理も味方に付けるのは喧嘩慣れした土方がいつもしていることだが、総司はいつだって誰かに付いて歩き回っていた上、どちらかというと方向音痴だったから、今までは滅多にしたことのない試みだった。
江戸とは全く違うところに来てしまった訳だし、これからは命の危険と常に隣り合わせで暮らしていかねばならない。
だからたまには土方の言うことも聞いてみるか、と思ったのはいいものの、案の定という感じではあるが、総司は完全に迷子になっていた。
土方がちらりと言っていた碁盤の目、というのは覚えていたのだが、総司の方向音痴ぶりは筋金入りで、北へ行こうとすれば南に歩んでいるという有り様だった。
それにそもそも、総司は自分たちの屯所がどこにあるのかすらよく分かっていなかった。
近所の甘味処だけはいち早く覚えたから、あそこのお店の角を曲がって…という風になら説明できるのだが、如何せんその甘味処がどこにあるのか分からない。
(参ったなぁ……誰かに聞けば教えてくれるかな……)
両側に延々と長屋の続いている細い小道を歩きながら、総司は途方に暮れて頭を掻いた。
だが果たして、壬生狼と言われて散々馬鹿にされている自分たちに、道などを教えてくれる親切な人がいるだろうか。
……こんなことになるんだったら、土方から地図を貰っておくんだった。
土方は一度は大まかな地図を描いて寄越してくれようとしたのだが、いつもの如く素直さを知らない総司は、それを突き返してしまったのだ。
(あー…夕食食べ損ねたら悲しいなぁ…)
お腹が空いたのと沢山歩いて足が痛くなったのとで、総司は不満を隠そうともせず顔に貼り付けながら、内心焦ってがむしゃらに足を進める。
すると―――。
「何なの?君たち―――」
その、疲労困憊かつ迷子の総司の目の前に、突然明らかに不逞浪士だと思われる集団が姿を現した。
咄嗟に身の危険を感じて、総司は後ずさりだから、油断なく相手の動向を見守ることにする。
総司にしてみたら、一体どこから湧いて出てきたのだというような現れ方だったが、きっと脇道でもあったのだろう。
行き止まりにわざと誘い込んで背中を守るというのも手だな…と冷静に考えながら、総司はただの迷子から、途端に殺気を纏った武士に姿を豹変させた。
「何なのたぁご挨拶だな」
ニヤニヤ笑う浪士の一人に、総司は鋭い視線を向けてキッと睨みつけた。
「退いてくれないかな。僕、君たちに付き合ってられるほど暇じゃないんだよね」
実際、もういっそこの浪士たちにでもいいから道を聞きたいほど、総司は切羽詰まっていた。
「そいつぁ聞けねえ相談だな」
「――斬られたいの?」
「おいおい、聞いたか?こんな青二才が、斬られたいの?だとよ!」
「生意気な口ききやがって」
「やれるもんならやってみろっつうんだよ」
浪士たちはがっはっは、と盛大に笑う。
しかし総司は敵の挑発に乗ることなく、その間にも頭をぐるぐると回転させて、素早く浪士たちの数を数えていた。
……五人。
何とか纏めて相手にできそうだ。
あとはいざとなった時、どう逃げるか……。
「御生憎様。僕は君たちみたいな雑魚野郎の血なんかで刀を汚したくないから」
総司は必死に時間稼ぎをしながら、横目で逃げ道を探していた。
その所為で、僅かに隙が生まれてしまったらしい。
「き、貴様っ!!!」
「若造が何をぬかしやがるんだよっ!!」
咄嗟のことに受け身を取る暇もなく、総司は顔を思い切り殴られた。
「いっ…―――!」
その衝撃に、思わず地面に尻餅をつく。
「っ…なに、してくれんの、さ…」
総司は切れて血の滴る唇をぺろりと舐めた。
口の中に、血の味が充満する。
「…生意気な小僧は、粛清してやるまでだな」
相手の言葉に血の気が引き、逃げなければと思うのに身体が動かない。
顔面を殴られた衝撃で頭がくらくらするのと、避けられなかったことで矜持を傷ついたのとで、起き上がろうとしても起き上がれなかったのだ。
良くも悪くも、総司が敵意を持った浪士に遭遇するのは、これが初めてだった。
総司が浪士たちの足元でうずくまっていると、首領と思われる浪士が、ずいと仲間を顎でしゃくった。
「……やれ」
その冷たい響きに、総司は思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
じりじりと迫りくる敵から逃げるため、総司はがばりと起きあがると、脱兎の如く駆け出した。
「あっ……待ちやがれ!」
韋駄天走りが有名だった土方ほどではないが、脚力には自信がある。
「くそっ!早く追うんだ!」
「捕まえろよ!絶対逃がすな!!」
後ろから浪士たちの罵声が聞こえてくる。
総司は顔を真っ青にしながら、転がるように路地裏を駆けていった。
民家の垣根をひらりと飛び越え、道も無視してひたすら逃げる。
「はぁ…はぁっ…」
自らの激しい動機と熱れに、額に大粒の汗が伝う。
気付けば、後ろから追ってきていたはずの浪士たちは姿を消していた。
「はぁ………はぁ…」
総司は息を整える為、一旦長家の壁によりかかって立ち止まった。
(諦めたのかな……?)
きょろきょろと辺りを見回してみるが、浪士たちの気配は感じられない。
安堵してホッと溜め息を吐いた時、不意に聞こえてきた怒鳴り声に、総司は再び肝を冷やして飛び上がった。
「見つけたぞ!!」
見れば、道の角から先ほどの浪士が一人飛び出してくるところだった。
「っ……!!」
慌ててもつれる足を動かして、反対方向へ走っていくと、今度は目の前に別の浪士が躍り出る。
「なっ………」
囲まれた――そう分かった時には、総司は刀を首に突きつけられて、退路を断たれているところだった。
咄嗟に抜刀はしていたものの、刀を捨てないと殺すと言われれば、それに従うしかない。
重い金属音を立てて、刀が道に転がった。
「っ…僕なんか殺したって、何にもならないよ」
総司は目一杯睨み付けることで抵抗を見せる。
「別に俺たちゃあ、お前さんを殺してえわけじゃねえんだ」
「どういうこと……?」
「ただ、なかなか見ない別嬪だからよ」
「そうだ、ちっとばかりお相手を願おうじゃねえかと思ったのさ」
「相手って、何の……」
まさか、一本手合わせをしようというのではないだろう。
総司が警戒して一歩後ずさりすると、すぐに後ろにいた浪士に腕を掴まれた。
「ぁ、……っ、!!!」
驚いて逃げを打とうとするも、背中を思い切り蹴られて息が詰まった。
「っ……がはっ!!」
必死に空気を求めながら、総司は地面に手をついて倒れる。
すると、浪士たちはそれを待っていたかのように総司を上から押さえつけ、一切身動きの取れない状態のまま、体中にべたべたと触れてきた。
「や、めろっ!……汚い手で僕に触るなっ!」
てっきり殺されるのだとばかり思っていた総司は、予想外の浪士の動きに恐れ慄いた。
そして何となく浪士の目的を理解して、あまりにも危殆な事態に必死で抵抗を始める。
身を捩り、手を振り回し、足をばたつかせた。
それが功を奏して、総司を押さえつけていた浪士たちが一瞬怯む。
そしてまた逃げ出そうとするも、浪士が四人も相手では些か分が悪かった。
「おいおい、そんなに暴れるなよ」
「っ………離せっ!!」
頭をぐいっと地面に押し付けられ、自然と後ろに突き出した手を拘束されれば碌な抵抗はできなかった。
どういうわけか、人影も全く見えない。
こんな御時世で、日の落ちた京の都は危ないからと、皆外にはでないのだろうか。
それにしても、近所の民家には少なからず人がいるだろうし、絶対総司の叫び声が聞こえているはずなのに、まるで誰もいないかのように静まり返っている。
きっと、巻き込まれたくないのだろう。
とばっちりを受ければ、みすみす命を落としかねない。
そうなると、誰かに助けてもらえそうな気配は全く皆無だった。
「ちっ……いい加減大人しくしろ!」
「嫌だ、ね……絶対に…慰み者、なんか…」
何とか敵の拘束から逃れようともがきながら、総司は必死で辺りを見回した。
が、刀も遠くの方に打ち捨てられているし、素手でやり合う自信はあまりない。
「おい、貴様」
総司が口先だけで強がっていると、浪士の一人が徐に刀を突き出してきた。
目と鼻の先にある切っ先に、総司の鼓動は自然と早まる。
「別に殺そうってんじゃないんだ、ただ尻の穴を差し出せっつってんだ…悪かねぇだろ?」
「誰があんたらなんかに……っ!!」
「おっと…口答えは良くねぇなぁ」
切っ先が悪戯に顔の輪郭をなぞり、時折鋭い摩擦を感じては、皮膚が切れて血が滲み出すのが分かった。
「まぁ、言うこと聞かねえなら、今すぐ殺してやってもいいんだがな……なぁ、てめぇだって死にたいわけじゃねえだろう」
「……………」
総司はぎらぎらと相手を睨み付けながら、必死に覚悟を決めようとした。
別に、陵辱されたからといって、女のように何かを失うわけでもない。
今はただ生き延びることだけを考えなくてはなるまい。
今死ぬわけにはいかないのだ。
総司は震えながら深く息を吐き出した。
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