時間が止まったかと思った。
いや、止まってくれたらどんなに良かっただろう。
「………てめぇ……そりゃあ一体どういうことだ」
地を這うような低い土方の声に、沖田はびくりと身体を震わせた。
今まで、土方が激昂している姿は嫌というほど目にしてきた。
が、それらは全て浪士相手や隊則を破った隊士に向けられるものであって、沖田が対象となることは決してないものだった。
逆に言えば、沖田がどんなに悪戯しようとからかおうと、土方が本気になって怒ることは今まで一度もなかったのだ。
それが今、土方は紛れもなく沖田に対する怒りを漲らせている。
その張り詰めた空気が沖田には手に取るように分かって、とうとう罰を受ける時が来たのだと、沖田は絶望に打ちひしがれた。
「これ、は………何でもない…ただの飴ですよ……はは…」
「っ総司!!」
土方は乱暴に襖を閉めると、灯りもなく薄暗い部屋の中で力任せに沖田を張り飛ばした。
「ぐっ、ぅ………」
畳に打ち付けられて、昼間散々痛めつけられた身体が悲鳴を上げる。
「っ…ぃ、…っ…」
殴られて痣になったところを思い切りぶつけたらしい。
息も出来ないほどの痛みに、沖田は畳の上でもがき苦しんだ。
「総司っ!てめぇは俺に何を隠してた!」
「っなに、も…………なにも、隠してませ…」
「嘘吐くんじゃねぇ!」
バキッと耳慣れた音がした。
また顔を殴られたのだ。
"嘘を吐くな"
沖田はその言葉に聞き覚えがあった。
「……っ…」
ほんの一瞬ではあったが、沖田は土方に倒錯を覚えた。
「………やめろ…」
「総司?」
「もうやめてくれって言ってんのが分かんないの!?僕は嫌だって言った!!嫌だって言った!」
「おい、総司!」
「気安く名前で呼ばないでよ!!」
「総司っ!!しっかりしやがれ!!」
土方に肩を揺さぶられて、沖田は初めてハッと我に返った。
「っ………ごめ、なさ…」
「どうした、何があったんだよ!?」
「……何でも、ないです…」
「てめぇはまだ俺に隠す気か!?」
「っ怒らないで!」
沖田は土方から顔を背けるようにして縮こまった。
怯えきって、そして、憔悴している。
が、土方とて今更もう後には引けなかった。
「………ふざけんじゃねぇ」
土方はドスの利いた声を上げると、抵抗する沖田には構わず、薬包紙を沖田の手から奪い取った。
それから匂いを確かめる。
薬包紙には、独特な臭気が色濃く残っていた。
「これは…っ……!」
土方はすぐに顔を背けた。
強烈な毒気にあてられそうになったのだ。
「おい総司!」
土方は厳しい視線で沖田を見た。
「な、なんですか…僕は……僕は何も…」
「てめぇ、こりゃあ阿芙蓉じゃねぇのか!?」
阿芙蓉………初めて面と向かって告げられたその名に、沖田は蒼白になって狼狽えた。
「ち、違……僕、そんなの……違う…」
「まだしらを切るつもりかよ!?俺だってこれくらい知ってんぞ!何しろ、上から取締令が出てっからな」
「だ、だって……僕、は…」
「何と言い訳をしようが無駄だ。何だってこんなものを飲んでやがった!答えやがれ!!」
「っやめて!!」
沖田は悲痛な叫び声を上げた。
「お願い…怒らないで……お願いします…っ」
「怒るな、だと?……はっ…ふざけたことを言ってんじゃねぇよ!!これが怒らずにいられるかってんだ!」
「でも…でも……僕は…」
「幕府が御法度にしたことを知らなかった訳じゃねぇんだろ!?一体何を考えてやがった!!」
別に何も考えてなどいなかった。
ただ、気付いたら薬漬けにされていただけだ。
土方なら、それを分かってくれると思っていた。
「僕は………僕は何も悪くない!」
「総、」
「僕は何もしてない!何も悪くないんだ!なのに何で分かってくれないんだ!僕は悪くない!……何も悪いことなんか…してない…のに………」
沖田の目から大粒の涙が溢れ出す。
「おい、総司…」
「出て行って」
「何だと?」
「出て行けって言ってるんです!もう放っておいてください!」
「阿呆!放っておけるわけがねぇだろうが!何を言いやがる!」
沖田は取り乱して頭をかきむしった。
低い唸り声をあげ、苦しそうに顔を歪める。
「あぁ……あぁ!くそっ!」
「総司、いいから少し落ち着け!」
「っ……全部……全部僕の所為だ……僕が弱いからこんなことになった…!」
今度は一転して自分を責め始めた沖田に、土方はもう一度びんたを食らわせた。
沖田の身体が反動で畳に投げ出される。
「総司!しっかりしねぇか!」
「痛い!…なんでぶつんですか!あいつらもいつもそうだ!いつも僕を殴る!殴ることしかできない!」
「おい、あいつらって誰だよ!?」
「……………………」
「おい総司!!お前は誰に殴られてんだ!?言え総司!言えよ!」
土方は沖田の肩を鷲掴むと、前後に思いっきり揺さぶった。
沖田の頭ががくがくと揺れ、涙が散る。
「っひじか、た、さ……」
沖田は自らを掴む土方の手を強い力で握り締めると、そのまま横に振り払った。
「ぼく、っだって……」
咽び泣きながら、沖田は懸命に言葉を紡いだ。
「ぼく、だって…言いたかった…!だけど……言えるわけがないじゃないか!」
沖田は開き直って立ち上がった。
その手を咄嗟に土方が掴む。
「おい!どこに行く気だ!」
「土方さんには関係ない!」
「ふざけんじゃねぇ!!言うまで部屋から出さねえぞ!?これは副長命令だ!」
「薬をもらいに行くんです!!これで満足ですか?!」
「総司っ!」
「っ離して!!もう耐えられない!」
「大馬鹿やろう!!」
土方は沖田を引きずり倒した。
「やめ…っ…やめてくださいっ!」
「うるせぇ!!」
「やだ!土方さん!やだっ!やだぁ…!」
沖田は逃れようと必死にもがくのだが、薬が切れて禁断症状が出ている身体では、ろくな力も出せない。
そうこうしている内に、土方が普段より深く合わせられた沖田の着物を割開いてしまった。
「…嘘…だろ!?」
土方は沖田の着物を握ったままぴきりと固まった。
暗闇でもよく分かる、赤黒い痣の数々。
沖田の不健康な白くて薄い肌の上に、不気味なほど鮮やかに散らばっている。
どれだけ暴力を振るわれたらこうなるのか、想像することすら困難だ。
「総司、お前…………」
沖田はすっかり抵抗する気を失って、土方の下で啜り泣いていた。
「だから………だから嫌だって言ったのに……酷い……酷い……ひっく」
そんな沖田の態度に土方は見る見るうちに怒りを募らせていく。
「っお前をこんなにしちまったのはどこのどいつだ!お前を誘拐した奴らか!?」
「…………知りません」
「総司っ!いい加減にしろ!」
「だから知らないって言ってるじゃないですか!!それより離してくださいよ!」
「ちっ………」
土方はこれ以上沖田に詰問しても埒が開かないことを悟って、大声で怒鳴り散らした。
「おい山崎!!山崎すぐに来てくれ!それに斎藤もだ!!」
「……!!」
沖田の目が大きく見開かれる。
「土方さ……どういうつもりで………」
沖田は再び微かな抵抗を見せた。
が、土方の強い力によって妨げられる。
「副長、どうかなさいましたか………っ沖田組長?!」
いち早く駆けつけた山崎は、沖田が土方に押さえつけられているのを見てギョッと立ち竦んだ。
「山崎、………悪いがこいつを土蔵に連れて行ってくれ」
「副長?!」
「っ土方さん!!」
土方の意図が分かって、沖田は悲鳴を上げた。
「お願い!お願いだからそれだけは勘弁してください!…閉じこめられたりしたら……ぼく……ぼく死んじゃいます!」
土蔵というのは、普段捕らえた浪士たちを監禁しておくのに使っている場所だ。
土方は沖田を懲らしめるために、処罰が決定するまでその土蔵に閉じこめようとしているのだ。
別に閉じこめられるのは構わない。
だがそれは、薬があるならば、の話だ。
薬もなくただ土蔵に入れられるなど、今の沖田にとっては最悪の拷問に他ならなかった。
「………山崎、早くしろ」
土方は沖田の叫びを完全に無視して言った。
「で、ですが副長…!」
「副長命令が聞けねえのか?」
「……っいえ……それは…」
「なら、早く連れていけ」
「土方さん!!」
その時斎藤が姿を現した。
「副長、お呼びでしょうか」
「おぅ、斎藤。お前は今すぐ松本先生を呼んでくれ。今すぐだ」
「……こんな時間にですか?」
斎藤は、泣き叫んで土方の名前を呼んでいる沖田を、なるべく視界に入れないようにしながら問うた。
「あぁ、誰か隊士を使いに行かせればいい」
「副長、総司はどうかしたのですか?」
「……………こいつのことは今は考えるな」
「…………………御意」
斎藤は足早に部屋を出て行った。
「………山崎、お前も早く仕事をしろ」
「は、」
「連れて行って、中で怪我の手当てをしてやってくれ」
「…分かりました」
山崎は喚き散らす沖田をやっとのことで土方から預かると、苦労して土蔵まで引っ張って行った。
とんでもない声で騒ぐ沖田を、広間から顔を覗かせた藤堂や原田たちが唖然とした目で見送る。
「嫌だぁ……土蔵なんていやだぁ…!!狂っちゃ…狂っちゃうよ!!薬が欲しいんだよぉ!!」
そんなことばかり口にする沖田に、山崎は眉根を寄せて無言で任務をこなすしかなかった。
「やだぁ…!怖い!狂いたくないよぉ!」
「沖田さん、しっかりしてください。松本先生が来られるまでの辛抱です」
土蔵に押し込んでから身体中の痣に軟膏を塗ると、沖田はようやく少し大人しくなった。
「っ……く……ひっく……」
肩を震わせて泣く沖田に、かけるべき言葉も見つからない。
「……沖田さん」
「……………なに…」
「実は今日、副長に言われて沖田さんのことをつけていました」
沖田はぎくりと身体を強張らせた。
やはりあの時つけられていると思ったのは、気のせいなどではなかったのだ。
「…ですが、沖田さんがやけに警戒なさるので、慎重に追っていたら見失いました」
「………………」
「俺は、沖田さんは別に怪しいことはしていないのでは、と副長に言いました。ですが副長は、それは有り得ないと断言なさっていました」
「……………」
「……副長は、あなたのことを本当に心配していらっしゃるんです。俺には心配するなと言うことすらできません」
「何が…言いたいのさ……」
「これ以上、副長に迷惑をかけるようなことはしないでください」
「っ………」
沖田は切れるほどに唇を噛みしめた。
人から真実を指摘されるほど辛いこともない。
「………だから……だから隠してたんじゃないか!」
「沖田さん、そういう問題では……」
「もう行きなよ」
「沖田さん!」
「あとは自分でやるから……迷惑かけて悪かったね」
沖田は山崎の手から軟膏を奪い取った。
「っ沖田さん、大人しくしてください!」
「……君には関係ない!どうせ僕は士道不覚悟で切腹なんだから。……最後くらい、自由にさせてよ……」
沖田の切腹という言葉に、山崎はハッと目を見開く。
「そんな……そんなことは…」
「何さ。君だって一番良く知ってるんじゃないの?土方さんに例外がないことくらい。それに君は、僕が土方さんに迷惑をかけたと思ってる。だったら尚更でしょ?」
「…………っ…」
「……いいから早く行きな」
すっかり狼狽えてしまった山崎を、沖田は土蔵から追い出した。
一人きりになった部屋の中で、沖田は再び嗚咽を漏らす。
「…ひじ、かた、さ…ん………」
山崎の言葉を聞いて、沖田は絶望した。
やはり自分は見捨てられたのだ。
自分で言ったことながら、切腹という言葉が深く心に染み渡り、いつまでも重たく立ち込めていた。
痛む身体よりも何よりも、抉られた心の傷がいつまでも疼いてたまらなかった。
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