その日の夕餉の刻。
なかなか広間に現れない沖田を呼びに、斎藤が部屋までやってきた。
「総司、起きてるか?」
「…うん………」
「夕餉の支度が出来ているのだが……気分でも悪いのか?」
「あ、……うん、ちょっと………でも今行くから待って…」
のろのろと部屋から出てきた沖田に、斎藤は目を見開いた。
沖田の顔がげっそりとやつれたように見えたからだ。
目の下のくまは徹夜明けかと思うほどに酷く、瞳もどこか虚ろな光を宿すばかりだ。
「そ、総司……随分と具合が悪そうに見えるのだが……大丈夫か?」
「そう?……ちょっと、疲れてる、のかな」
「それに、その顔の傷はどうしたのだ。見たところ痣も出来ているようだが?」
「あ、あぁ……これは、ぶつけたんだよ、ぼーっとしてたらさ」
沖田は取り繕うように笑ってみせた。
あの後こっそり河原に行って、身体を綺麗にしてから帰ってきた。
傷まで落とせるわけはなかったが、普段よりも着物をしっかり着込んでいるし、"怪我をした"と誤魔化しが効く見た目にはなっているはすだ。
「………本当に、大丈夫なのだな?」
「うん」
「そうか、ならば今日は早く寝ることだ」
「分かってるよ。とりあえずご飯ご飯!」
正直冷静に話すのもやっとだった。
冷や汗が背中を伝い、気持ちの悪さとどうしようもない苛立ちにずっと苛まれている。
今すぐあの薬が欲しい。
沖田の頭に浮かぶのはただそれだけだった。
斎藤に続いて広間に入った沖田に、皆が一瞬息を飲んだ。
それほどまでに、沖田の外見の豹変ぶりは凄まじかったのだ。
「お、おい、総司大丈夫か?」
「ちゃんと寝てる?!すっげぇ顔色悪いけど!」
「はは、やだなぁ。そんなに酷い?僕の顔」
「あぁ。死人みてぇな顔」
「大丈夫ですよ。ここんとこ隊務が結構立て込んでたし、疲れが溜まってるだけですから」
「総司、その顔の傷はなんだ」
斎藤と同じく目敏い質問をしてくる土方に、沖田は心の中でため息を吐いた。
「ちょっとぶつけただけですよ」
「どこにぶつけたらそんなところに傷がつくんだ」
「うるさいなぁもう。どうだっていいじゃないですか」
「はぐらかしてねぇで答えろ」
「っいちいちうるさいって言ってるんです!!!放っといてよ!!貴方には関係ないでしょ?!」
突然声を荒げ、うんざりだとでも言うように大声でまくし立てた総司に、その場にいた者は全員硬直した。
「総司………?」
土方が驚いて名前を呼ぶ。
「…なんで……なんでそんな目で僕を見るんですか!!僕は狂ってなんかない!僕は正しい!間違ってない!!そんな責めるような目で見るな!!!」
「おい総司!いきなりどうしたんだよ!?」
明らかに様子のおかしい沖田に、土方は立ち上がって手を伸ばした。
「総司、一体何が………」
「僕に触るなっ!!!」
沖田が土方の手を乱暴に振り払う。
乾いた音がして、土方の顔が痛みに歪んだ。
「総司!!」
見かねた原田が、沖田に向かって怒鳴りつける。
「何があったのかは知らねえけど、土方さんに八つ当たりすんのはやめろよ!土方さんは何もしてねぇじゃねぇか!」
「っ左之さんには関係ない!!」
「いいや、関係ある。今日の総司はおかしすぎるぞ!?」
「そうだよ総司!いくら何でもひでぇじゃんか!土方さんに謝れよ!」
「よせ平助。今の総司に言っても火に油を注ぐだけだ」
「一君!だけど!」
「……は…」
その時不意に、沖田の口から乾いた笑い声が漏れた。
その不気味なほどに冷たい響きに、辺りはしーんと静まり返る。
「あ、はは!…ははははは!ははは!……ははっ………」
笑いながら、沖田の目には激しい憎悪がぎらぎらと燃え上がっていった。
「……そうやって、みんなで僕のことを疎ましく思えばいいよ。お荷物で厄介で、どうせみんな、僕に死んでほしいと思ってるんだろうからね…」
「総司!!」
土方が悲痛な叫び声をあげた。
が、沖田には聞こえていない。
「……それで僕は全然構わない。どうせもう、僕は人間らしくなんていられないんだから………毎日人を斬って……斬って斬って斬って…」
「総司!しっかりしろ!」
しかし、沖田はそのままふらふらと広間を出て行ってしまった。
「総司!」
それを慌てて土方が追う。
「土方さん!」
不安そうに藤堂が広間の外を見やり、立ち上がりかけるのを再び斎藤が制した。
「じっとしていろ、平助」
「けどさ、一君は心配じゃねぇの?」
「無論心配だ。ここのところ総司はずっと様子がおかしかった。が、一度ああなってしまったら手のつけようがない。ここは副長に任せるべきだ」
「斎藤の言うとおりだな」
「左之さんまで……!」
「いいから、飯食っちまえよ」
「……………」
藤堂は渋々ながら、黙って箸を手に取った。
広間に残された者たちは皆一様に口を噤み、すっかり味気のなくなった食事を再開するしかなかったのだった。
*
沖田は震える手で自室の引き出しをまさぐった。
中身を全部ぶちまけて、必死で薬の残りを探す。
凄まじい吐き気と耳鳴り。そして頭痛と目眩。
いっそ死んでしまった方が楽なのではないかというくらいの、形容し難い苦痛が沖田を襲っていた。
視界がぐるぐる回る。
冷や汗がどっと吹き出してくる。
「…っ…どこ………」
最初のうちは、薬を断つ良い機会だと思っていた。
が、刻一刻と時間が経つにつれて、もう薬なしでは到底いられなくなっていることに気付かされた。
やはりあの連中が言っていた通り、沖田は完全に薬漬けにされてしまったのだ。
文字通り血眼で薬包紙を見つけ出すと、沖田は中身の半分ほどを大慌てで口に流し込んだ。
「……ぅ…げほっ!げほっ!…はぁ」
酷く苦い味がした。
が、それでも先ほどまでの苦しみは嘘のように消えていく。
代わりによく分からない幸福感と、快感と、そして満足感が湧いてきた。
自分は無敵なのでは、という過度な自信まで漲ってきて、つい今さっきまで苛立っていたのが嘘のようだ。
「はぁ……はぁ……」
ふわふわした高揚感に、沖田は深々と溜め息を吐いた。
まるで試合で連続一本勝ちを叩き出した時のようだ。
試衛館の道場で兄弟子をボコボコにした時や、浪士を一刀両断にしてやった時のような、……いや、それ以上のえもいわれぬ爽快感が身体中を満たしていく。
先ほどまでのもやもやした気持ちは、きれいさっぱり消え去ってしまった。
「…………………」
が、手の中の空になった薬包紙を見た途端、とてつもない絶望感に襲われた。
また、飲んでしまった。
もうやめよう、もうこれで最後にしよう。
そう思うのに、薬が切れた時のあの壮絶な苦しみに耐えられず、気付いたらいつも薬に手を伸ばしてしまっている。
どうせこの最後の薬がきれればまたあの連中のところに行って、男、いや、武士としての矜持も何もかも全部捨てて慰み物になるだけなのに。
それに今度からは、新選組の情報を提供しない限り絶対に薬は手に入らないだろう。
だが、薬を絶つ自信などない。
この上ない背徳感に苛まれているというのに、心のどこかでは不思議な高揚も感じている。
沖田はもう自分で自分が分からなかった。
「くそっ!………くそっ……!」
沖田は畳をどんどんと叩いた。
自分が惨めで、こんな風になってしまったことが悔しくて、怖かった。
いつかバレて、新選組を追い出される日が来るんじゃないか。
そのうちに夢も現も分からなくなって、土方の顔も識別出来ないようになるんじゃないか。
少しだけ冷静になった頭で改めて考えてみると、薬に依存しきっている自分が恐ろしくて……そう、例えるなら誰かの手に縋りつきたいような、そんな気分になった。
自分が自分でなくなっていくような、自分のことなのにどんどん自分では制御できなくなっているような、その感覚が恐ろしい。
でも、好きでなった訳じゃない。
ちゃんと僕は嫌がった。
いくらそう思っても、現状に救いは現れない。
その時初めて、沖田は閉めたはずの部屋の襖が開いていることに気付いた。
余りにも薬に必死すぎて、つい油断していたのだ。
「………っ……ひじ、かた、さ……!」
部屋の入り口には、唖然とした土方が、硬直しきって突っ立っていた。
▲ *mae|top|tsugi#