真っ白な部屋。
剥き出しの天井。
規則正しく並べられたその模様をそこはかとなく眺めるだけで、何一つ考えない日々。
そんな日々に、終止符を打つ日がとうとうやってきた。
いつものように看護師さんがやってきて僕の拘束具を全て外すと、日課ではなく、僕の寝間着を着替えさせたり、荷物の準備をしたりしてくれた。
「総司くん、いよいよ退院だね。よかったね」
「………………」
「保護者の方が、見つかったんですってね。お見舞いにも見えたことないから、心配していたんだけど」
はあ。土方先生、律儀に姉さんと連絡取ってくれたんだね。
有り難い有り難い。
簡単に姉さんが頷くとも思えないけど。
一体どんな手を使ったんだろう。
それとも、引き取るだけ引き取ったら、僕をどこかに追い出すつもりなのかな。
……まぁ、それならそれでいいけど。
あの日土方先生と激しく言い合ってから、土方先生は毎日の健康診断以外では、全く顔を見せてくれなくなっていた。
僕は僕で、またお人形に元通り。
喋らないし、笑わない。
涙だって流さない。
結局土方先生も、今までの先生たちと、何ら変わりなかったということだ。
最後には必ず、僕のことを見捨てて去っていく。
「さてと、忘れ物はないかな?」
看護師さんが、戸棚や洗濯物かごを覗き込みながら忙しなく動いている。
それを余所に、僕は窓の向こうをじっと眺めていた。
あの日と同じように、真っ青に晴れ上がった空。
遠くに小さく浮いている雲が、ゆっくりと風に流されていく。
――白々しいほどに、澄んでいる。
「じゃあ、総司くん、行こうか」
不意に僕の小さな鞄を持った看護師さんに声を掛けられ、僕はふらりと立ち上がった。
病室を出て、自力で廊下を歩いていく。
時々よろけるのを、看護師さんが支えてくれる。
途中すれ違う看護師さんや医者たちは、皆嬉しそうな笑顔を浮かべて、おめでとうと言ってきた。
……何がおめでとうなんだか。
僕にはさっぱり分からない。
僕は何も治っちゃいない。
長い廊下を歩き、エレベーターで一階まで降りながら、僕はずっと姉さんのことを考えていた。
久しぶりに会うというのに、いきなり何を言えばいいんだろう。
捨てられない為には、愛想良く笑っておくのが妥当だろうか。
ありがとう、姉さん。
ずっと会いたかったよ。
迷惑かけちゃうかもしれないけど宜しくね。
……ダメだ、僕にそんなことを言えるような器量はない。
きっと不貞腐れたようにむっつりと黙り込んで、全く笑っていない目でぎこちなく口角を上げるのが精一杯だろう。
そんなことを考えながらエレベーターを降り、病院の入り口まで来た時。
「総司」
医局の方から、待ち構えていたように土方先生が現れた。
今日は白衣を着ていない。
その優しげな顔を見た途端、僕の不機嫌さが一気に加速する。
自分のこと、保護者を見つけ、退院にまでこぎ着けてやった正義感の強い医者とでも思ってるのかな。
――とんでもない。
「土方先生、今日はもうあがるんですか?」
「あぁ、夜勤明けだからな」
「お疲れ様です」
「うん。こいつを見送ったら、眠りに帰る」
「そうですか」
「ご苦労だったな。ここからは俺が付いて行くから、お前はもう行っていいぞ」
「はい、ありがとうございます」
看護師さんはホッとしたように顔を緩めた。
あ、そう。僕のお守りはそんなに疲れるわけ。
「――あ、これ、総司くんの荷物です」
「ん?ああ…って、お前これだけか?」
土方先生は吃驚したように、僕の小さな鞄を持ち上げて見せた。
僕は小さく頷く。
「半年入院してたとはとても思えねえが……」
「……家から色々持ってきてくれる人が誰もいなかったから」
僕が小さく呟くと、土方先生はぐっと言葉を詰まらせた。
それから無言で頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜてくる。
「う、わ…ちょっと…やめてください」
看護師さんの手前派手に嫌がることもできなくて、僕は控え目に身体を捩って土方先生の手から逃れた。
「……じゃあ、行くぞ」
「総司くん、元気でね」
「……………はい」
「もう戻って来ちゃダメだからね」
…最後の言葉には答えられなかった。
「総司、行くぞ」
僕は手を振っている看護師さんに踵を返すと、スタスタと歩いていってしまう土方先生を追いかけた。
「ま、待ってください!」
長らく運動していなかった僕は、すぐによろついてしまって、早歩きどころかまともに歩くことすらままならない。
「悪い悪い」
土方先生は真顔のまま僕のところまで戻ってきた。
そして、手を貸してくれようとする。
僕は、差し出された手を乱暴に払いのけた。
「………おい」
土方先生が、不機嫌な時の声で言う。
「もう……行ってくださいよ。夜勤明けで疲れてるんでしょ?今までありがとうございました」
僕は土方先生の手から鞄を引ったくった。
「っおい!」
鞄の持ち手を咄嗟に掴んで、土方先生がぐい、と引く。
「や、やだ……っ」
僕も負けじと鞄を引っ張る。
男が二人して鞄を取り合って、病院の玄関先で何をしてるんだろう。
物凄く、滑稽な光景。
だがそれもほんの一瞬のこと。
勝負はすぐについた。
…負けたのは僕だった。
当たり前だ。
体力がなくなっている僕に、本気を出してくる土方先生が悪い。
僕は乱れる呼吸を整えながら、土方先生を睨み付けた。
「はぁっ……はぁっ………一体、どういうつもりですか?」
「どういうつもりも何もねぇ!いいから黙って付いて来い!」
「っ………」
頭ごなしに言われてしまえば、僕はそれに従うしかない。
第一、僕の鞄は土方先生の手中にあるわけだし。
なに、もしかしてあれって人質なの?
土方先生は、僕にあわせてゆっくりと歩いていく。
やがて辿り着いたのは、病院の裏にある駐車場だった。
「土方先生?」
「……………」
「ねぇ、先生ってば!」
「……………」
「姉さんはどこにいるの?車?車で来てるの?」
黙ったまま歩いていく土方先生に、僕は焦って問い詰める。
「あれ………ここ……」
僕は自分の足元に目をやって驚いた。
「ねぇ、ここ職員駐車場ですよ?先生、間違えてません?」
その時不意に、土方先生が振り向いた。
「総司」
「はい?」
その真剣な眼差しに、思わず背筋がぴんと伸びる。
「…俺は、お前を引き取ることにしたんだ」
「……………………はい?」
「だから、俺がお前を、保護観察って形で、…」
「いや、聞こえてますって。そうじゃなくて、いや、あの、訳わかんないんですけど」
僕が呆然と立ち尽くしていると。
急に土方先生は僕の鞄をその場に放り出して、僕を抱き締めてきた。
あ、酷い。僕の大事な鞄なのに。
折れそうなほどキツく抱き締められながら、僕は若干ズレたことを考える。
「俺が、痛みも何もかも教えてやる。寂しい思いなんかぜってぇさせねぇ。生きたいと思わせてやるから。だから、俺ンとこに来てくれよ」
僕は未だに状況が掴めない。
ただ、何となく、喜んでいい場面展開かな、とは思う。
「………勤務医はペットの世話をする暇なんかないんじゃないんですか?」
「お前はペットじゃねぇだろうが」
「……でも、…でも………」
頬を涙が伝い落ちる。
嬉しいのか、僕。嬉しいの?
こんな有り得ない現実、信じられるわけがないじゃないか。
「は……困ったな…僕、…優しくされるのに慣れてない、から……」
ぐずぐずとしゃくりあげる僕の頭を、土方先生が暖かい手で撫でてくれる。
その優しさが辛くて…辛いほど嬉しくて…僕はまた涙を流す。
現実だ。
これは現実なんだ。
土方先生は、違った。
僕を見捨てたりしなかった。
「止ま…止まんない………」
涙が、何度拭っても溢れてくる。
だって僕、誰かに必要とされたことなんか、一度もなかったんだ。
「ったく……そんなに泣くなよ。つーか、この涙は肯定として受け取っていいのか?」
「う…ん、……いいよ、…いい、…いいです、……宜しくお願いします…」
「は……良かった」
再び土方先生にぎゅっと抱き締められて、僕の心臓がどくんと高鳴る。
そして僕は実感したんだ。
あぁ、僕は今確かに生きてるんだ、って。
2012.04.06
(……あぁ、忘れてた。これやるよ)
(……ん?何ですか?これ)
(退院祝いだ)
(……………リストバンド……!!)
→あとがき
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