――退院。
その言葉を聞いた途端、自分でも驚くほど憂鬱になった。
これっぽっちも嬉しさがこみ上げてこない。
待ちに待った自由だというのに、一体どうしたんだろう、僕。
「―――どうした?」
黙りこくって俯いている僕の顔を覗き込んで、心配そうに土方先生は言った。
「おい、どうしたんだよ。辛気臭ぇ顔して。退院が嬉しくねぇのか?」
僕は静かに首を振った。
「…どっちだよ」
退院したくないわけじゃない。
でも、退院したいわけでもない。
だって、退院したら……そしたら、…
何と言えばいいのか分からない。
「……寒い。疲れました。僕もう帰りたい」
「おい、……」
すくっとベンチから立ち上がった僕に、土方先生が慌てて手を差し伸べた。
本当は、もう少し土方先生と外に居たかったけど。
他に誤魔化しようがない。
「どうしたんだよ、急に」
「別に何でもないですよ?」
「…………」
きっと、精神科の先生だから、これ以上言っても無駄だってすぐに分かったんだろう。
さすが、引き際を弁えている。
「楽しかったか?」
車椅子を病室に向けながら、最後に土方先生はそう尋ねてきた。
「はい、…………すごく」
ただ、ほんの少し名残惜しい。
それから病室に連れて帰ってもらい、僕は元通りベッドに収まった。
それを見届けるや否やすぐに病室から出て行こうとする土方先生を、僕は慌てて呼び止める。
「……ねぇ、いつですか?」
「あ?何が?」
「…僕の、退院の日」
「さぁ?…まだ確定したわけじゃねぇし」
「そう、ですか………」
退院して、ここを出たら……僕は一体どこに行くんだろう?
「はは……僕、行くとこないや………」
「何か言ったか?」
土方先生が眉を吊り上げる。
あれ、聞こえた?
自分でも聞き取れないくらいだったのに。先生ちょー地獄耳。
「いや、………何でもないです」
「何でもなくないだろう。ちゃんと言え」
「やだなぁ、本当に何でもないんですってば」
「嘘吐くな」
どこまでも続きそうな押し問答に、僕は深々と溜め息を吐いた。
これは、僕が折れるしかなさそうだ。
「………行くとこないって言っただけです」
「はぁ?…お前、お姉さんがいるって言ってたじゃねぇか」
「そんなの昔の話です。あの人はね、結婚してから一度も、…ただの一度も、僕のところに来てないんですよ?」
「お前………」
「結婚する前から、早く僕と縁を切りたいって思ってるのが丸分かりだった。きっと、精神科に入院してる弟のことなんか、弟とも思ってないんだと思いますよ」
話してるうちについ嗚咽が漏れそうになって、僕はぎゅっと拳に力を込めた。
「…僕だって………僕だって、あの人のことなんかお姉さんだとは思ってません」
惨めだ。すごく惨め。
せっかく退院できたとしても、その後また僕は一人ぼっちになる。
………土方先生とも、もう会えない。
それでまた孤独に耐えられなくなったら、僕は…僕はまた自殺するしかないかもしれない。
僕は自嘲気味に笑みを浮かべた。
「…僕、…また一人になったら、………そうだ、そしたらまたリストカットしてあげます。そうすればまたここに来て、先生のお世話になれ………ッ!!」
パシン、と甲高い音が鳴り響いた。
何が起こったのか、僕には分からない。
ただ、怒りを両眼にたぎらせて、震える平手をかざしている土方先生を見れば、打たれたんだということはすぐに飲み込めた。
「……お前が急に不機嫌になった理由はそれか」
低く掠れた声で、土方先生が言う。
「黙って聞いてりゃあよくもいけしゃあしゃあと……てめぇ、いい加減にしろよ?」
「……何で土方先生が怒るんですか」
「てめぇが平気で死ぬだの何だの言いやがるからだろうが!あぁ?!」
「だって…痛くないから……!今だって…今だって先生にビンタされても、僕は何も感じられないんだからっ!!!いくら切ったって僕は痛みを感じないんだから、別に悪いことなんか何もないじゃないか!!!!」
「いい加減にしろっ!!!」
頭が割れそうなほどの大声で怒鳴って、土方先生は急に僕の手首をぐい、と掴んだ。
「おい、よく見てみろよ」
僕は咄嗟に目を逸らす。
「っちゃんと見やがれ!!」
「………っ!」
こんなに激高している土方先生は初めてだ。
僕が思わず肩を震わすと、土方先生は力強い手で僕の顎を掴み、苛ついたように僕の顔を包帯巻きの手首に向けた。
「この手首のどこに、まだ切り刻める余裕があるっつうんだよっ!!!」
「っ…………」
「確かに身体は痛まないかもしれねぇ。…だがな、心は痛みを感じるだろうが!!あぁ??何とか言いやがれ!!」
うち捨てるように、土方先生が僕の手首をベッドに落とす。
その手首で両目を覆って、僕は慟哭した。
堪えきれなかった涙が、ぽろぽろと頬を伝ってシーツに染みを作る。
「てめぇの心は、てめぇが身体を傷つける度に悲鳴上げて痛がってんだよ!違うか?違うとは言わせねえぞ!!?」
「うぅっ…ぐ…っ、」
頭ごなしに、こんなに厳しく誰かに怒られたことなんか、今まで一度もなかった。
誰もが腫れ物みたいに僕を扱って、僕が生身の人間だってことを、みんな忘れているみたいだった。
「僕は痛くない、なんてよく言うぜ。自分の痛みも分からねぇような奴に、自分を殺すことなんざ一生できねぇよ!」
お前が何度やっても死ねない理由はそれだ、と暗に言われたような気がした。
僕は激しく咽び泣きながら、どうにも止まらない涙を拭っては零し、零してはまた拭う。
「いい加減、自分の痛みを分かってやれよ、総司」
土方先生は徐に僕の腕を退けると、些か乱暴ではあったが、真っ白な白衣の袖でごしごしと涙を拭ってくれた。
「てめぇは、本当は死にてぇなんて思っちゃいねぇ。ただ、寂しいのが嫌なだけだろう」
先ほどまでの激しい怒りが漲った声から一転、諭すように穏やかな声を出す土方先生に、僕はふと苛立ちを覚えた。
「――ッ触らないでください!」
力任せに土方先生の手をなぎ払い、驚いている先生をキっと睨み付ける。
「何もできないくせに……何もしてくれないくせに、寂しいだとか勝手な言いがかりをつけるのはやめてください!いい迷惑だ!」
「総司っ…」
「どうせ僕は一人ぼっちです!心の痛みなんか一生かかっても分かんないよ!」
「おい!総司!」
「早く出て行ってください…早くっ!出てって!!もう顔も見たくない!先生なんか大っ嫌いだ!!」
大嫌いと言った瞬間、僕は心が軋む音を確かに聞いた。
「嫌い……キライ……大っ嫌い…ぅ…く……ふ、ぇぇ…」
頭を抱えて布団に潜り込む僕を、土方先生は暫し唖然として眺めていた。
こんなヒステリーを起こすのは、確かに久しぶりだった。
そのうち叫び声を聞きつけた看護師さんが来てしまうかもしれない。
もう、ウンザリだ。
自分も、何もかも、もう消えてしまえばいい。
「ちっ……くそ餓鬼が……っ!」
土方先生は、やがて吐き捨てるようにそう言った。
それから突然布団を引き剥がすと、嫌がって抵抗する僕を無理やり押さえつけて、いつかのように、また拘束具で僕の両手の自由を奪ってしまった。
この細い身体のどこにそんな力があるのかと思うほど、強い腕力でぐいぐいと押さえつけられて、以前看護師さんに言っていた"大丈夫"も伊達ではないなと思い知らされる。
「不本意だが、仕方ねえよな?お前が死ぬって言わなけりゃ、こんなことはしなくて済んだのによ」
土方先生は、冷たい目をして吐き捨てた。
「っ…人権侵害ですよ?……取ってください!」
「聞けねえ相談だな」
暴れる僕に、拘束具はびくともしない。
「おっと、忘れるところだったぜ」
土方先生は、ご丁寧に僕の口にマウスピースまで突っ込んだ。
「んんっ!!んぐっ」
取れ、と目で訴えるも、土方先生は取り合ってくれない。
「退院まで、大人しくしてるんだな。……あぁ、お姉さんには連絡しとくからな」
「…っ!」
目からつーっと涙が零れる。
僕は病室から出て行く土方先生の後ろ姿を、じっと眺めていた。
痛い……痛いよ、土方先生。
心が、どうしようもなく痛いよ。
大嫌いなんかじゃない。
こんなに、好きなのに。
あなたはそこまで僕のことを見抜いてくれたのに、どうして、最後にまた見捨てるの……?
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