それから土方先生は、毎日僕のところにやってきては、どうでもいい雑談を繰り返して帰っていった。
最初のうちはお節介な土方先生をうざったく思って、一刻も早く帰ってくれと、あの手この手で追い返していた僕だけど、次第に自分勝手な態度は取れなくなっていった。
だって何か、土方先生に酷いことを言う度に、ちょっとだけ罪悪感を感じるようになったから。
何を言われようが怒りもせずに、次の日には必ず顔を出してくれる。
今までの先生とは違って、嫌な顔……はするけど、僕のことをすぐに見捨てたりしない。
土方先生はそういう人だってことが、よく分かったから。
「お、今日はちゃんとネギも食べたじゃねぇか」
「……子供扱いしないでください。僕のこと何歳だと思ってるんですか」
今まで一度も僕自身を見てくれた先生なんかいなくて、だけど土方先生は、僕を、一人の人間として扱ってくれた。
……まぁ、すぐ子供扱いするのは玉に瑕だけど。
喧しい看護師さんを追いやって、拘束具を取ってくれるし。ご飯を自分で食べさせてくれるし。
当たり前のことを、当たり前にしてくれる。
そういう人と出会ったのは初めてだった。
「総司」
窓の外を眺めている真っ白な白衣の後ろ姿をじっと見つめていると、不意に土方先生が振り返った。
「今日は外に出てみるか」
「はい?」
突拍子もない土方先生の言葉に、僕は目を瞬かせた。
「外って…………」
「ほら、見てみろ。すっげぇいい天気だろ」
そう言って、土方先生は窓の外を指差す。
「でも………」
「でもも何もねぇだろうが。主治医の俺が許可してんだ。まぁ、お前が外に出たくねぇって言うなら話は別だが」
早速車椅子を引っ張り出してくる土方先生に、僕は困惑して視線を泳がせた。
「ほら、行かねえのか?」
数ヶ月ぶりの、外。
最後にお日様の下を歩いたのはいつだったか。
「…………………行きたいです」
僕はボソッと呟くと、苦笑している土方先生を横目で睨んでベッドから起き上がった。
土方先生に手を貸してもらって、車椅子に座り込む。
ずっと寝たきりの生活だと、足腰も弱くなるというものだ。
斯くして、久しぶりに外に出た。
病院の広い庭を、車椅子が進んでいく。
僕を置き去りにして季節を移ろわせていた世界の鮮やかさに驚いた。
ざわざわと木々を揺らす風が、爽やかで心地よい。
「……いい気持ち」
「だろ?この季節は散歩すんのに持って来いだからな」
ゆっくりと車椅子を押しながら、土方先生が僕に相槌を打つ。
ずっと病室に閉じ込められていた僕は、外の世界の眩しさをすっかり忘れていた。
目を細めて、きょろきょろと辺りを見渡す。
「寒くねえか?」
「大丈夫ですよ」
「疲れたら言えよ?すぐ帰るから」
土方先生の言葉に、僕は思わず吹き出した。
「ぷっ……僕座ってるのに、疲れるわけがないじゃないですか。疲れるのは先生の方でしょ?」
「は、そんなに減らず口が叩けるようなら大丈夫そうだな」
軽く流されてしまったことに腹を立て、僕はぎゅっと唇を噛む。
その時視界に、木陰のベンチが入り込んできた。
「先生、あそこ!」
「あぁ?」
「僕あそこ座りたいです」
僕はベンチを指差した。
「……ん、了解」
ごろごろと車椅子がベンチに向かう。
僕はふらっとよろけながらも何とか自力で立ち上がると、驚き慌てる土方先生を余所に一人でベンチに座った。
それから、困惑したまま立ち尽くしている土方先生の為に、自分の隣をぺちぺち叩く。
「ん、何だ?俺が、そこに座るのか?」
「他に誰がいるんです。ずっと突っ立ってるつもりですか?」
「……そんなに長居はしねぇからな」
「はいはい」
土方先生は、勢いよく白衣の裾を後ろに跳ね上げてから腰を下ろした。
「……もう、春だったんですね」
その横顔に向かって、僕は話しかける。
「……あぁ、確かお前がここに来たのは秋だったな」
「…綺麗な十五夜でしたよ?」
今でもよく覚えている。
僕は、あのまんまるなお月様に向かって飛んで…そして落ちた。ビルの屋上から。
「僕ね、背中を強打したら、痛覚異常が治ると思ったんです」
「背中?」
「はい、前に聞いたことがあって。脊髄を強打すれば、一時的にでも無痛症が治るって」
「あぁ…………」
土方先生は遠い目をした。
きっと、医学的なことを考えてるんだろう。この綺麗なお顔の下で。
「最近って、飛び降りれるビルを探すだけで一苦労なんですよ?警備は厳重だし、フェンスは高いし……」
「もう、やめろ」
ぺらぺらと話が止まらない僕を、土方先生はやんわりと制した。
「……僕、別に辛いとか思ってないですよ?」
「馬鹿言え、顔に書いてあんぞ」
僕は口を噤むことにした。
なんか、これ以上何か言ったら墓穴を掘りそうだったからね。
僕は、自分のやせ細って青白くなった手を見詰めた。
包帯がぐるぐると巻かれている。
その下には、いくつもの生々しい傷の痕。
そしてその更に下、薄い皮膚の向こう側には、一応血が通ってるわけだけど。
でも、それを感じたことはない。
「ねぇ」
「……ん?」
白衣のポケットに手を突っ込んで、癖なのだろうか――足を組んで遠くを眺めている土方先生に、僕は何気なく声を掛ける。
「先生って、家族いる?」
「………まぁ、居て居ねぇようなもんだな」
「…そうなんですか?」
「疎遠なんだよ」
「ふーん……じゃあ、ペットは?」
「はぁ?ペットって……お前、そこは普通恋人とかじゃねぇのかよ…」
「じゃあ恋人は?」
「いたけど別れた。正直、勤務医じゃデートしてる暇なんざねぇしな」
「じゃあ、ペットは?」
「何でそんなにペットが気になるんだよ!ペットもいねぇよ!つーか、ペットの世話してる暇があったら恋人大事にしてるっつの!」
「あぁ、そっか」
何となく、土方先生のことがもっと知りたくなった。
「先生は、どうして医者になろうと思ったんですか?」
「それは………」
土方先生は、たまに見せる遠い目をした。
「…昔、不治の病で亡くした奴がいてな。助けてやりたかったのに、助けてやれなかった」
へぇ、と僕は目を見開く。
土方先生の目がいつになく優しくて。
意外だなぁと思う。
「案外ちゃんとした理由なんですね」
「案外って何だよ」
土方先生はふん、と鼻で笑った。
「む、何で笑うんですか」
「いや……お前、だいぶ人懐っこくなったと思ってよ……なったというか、実は元からそうだったのか、知らねえけど」
「急に何ですか?」
「いや、ここ数日で、お前随分丸くなったと思ってな」
「……それって、自分の治療の御陰だ、とか思ってるんですか?…うわぁ、えげつない。ナルシスト!」
「違ぇよ!ったく、ただ、前より喋ってくれるようになって、ホッとしてるだけだ」
「ホッとするって、何で?」
「そりゃあお前、すぐに退院させてやれそうだからに決まってんだろ」
土方先生はそう言って微笑みを浮かべた。
ざわ、と風が吹き抜ける。
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