次の日。
またいつも通りに看護師さんがやってきて、おままごとの人形みたいに僕に朝食を食べさせようとしたところで、不意に土方先生がおいでなさった。
「あっ、土方先生!」
看護師さんが慌てて頭を下げる。
その手に握られたスプーンを見て、土方先生はぐっと眉間に皺を寄せた。
「…こいつって、いつも自分で食事してねぇのか?」
こいつ、と土方先生は僕のことを顎でしゃくった。
全く、どこまでぞんざいな扱いをするつもりなんだろう。
「えぇ、拘束具を外すわけにはいきませんので」
看護師さんは、悪びれもせずに言う。
「ったく、またそれかよ。何だ、こいつはそんなに暴れんのか?」
「最近は大人しいですけど。前は、鎮静剤を打たないと駄目なことばかりでした。それに、目を離すとすぐに自分を傷つけようとするものですから」
「そりゃあまた随分だな」
二人とも、当の本人が目の前にいることを忘れてるんじゃないかな。
それか、僕が意志や感情のある人間だってことを忘れてるか。
そりゃあ、僕が暴れん坊だったのは事実だけど、流石にそこまで言われるとへこんじゃうよ。
僕がムッとして押し黙っていると、土方先生は僕を一瞥してから、改めて看護師さんに向き直った。
「もう、下がっていいぞ。今日は、俺がする」
「えっ」
看護師さんは慌てて首を振った。
「だ、駄目ですそんな!こんなこと、先生にさせるわけにはいきません!」
「いいんだ、これも治療の一環だ」
「で、でも………」
「終わったら必ず呼ぶ。それでいいだろ?」
土方先生は有無を言わさない様子で看護師さんからスプーンを取り上げると、それでも何とか土方先生を阻止しようと騒いでいる看護師さんを、部屋から追い出してしまった。
その様子をじっと見ていた僕は、改めて思った。
土方先生て、相当破天荒だ。
「……やれやれ。ここは規則が多くて適わねえな」
看護師さんが出て行って二人切りになるなり愚痴を零し始める土方先生に、僕は目を丸くした。
「……ここは、って、…」
「ん…?」
僕がいきなり口を開いても、土方先生はもう何もそれを指摘するようなことは言わなかった。
ただ、目は明らかに嬉しそうに綻んでたけど。
「俺は、今まで他の病院にいたからな」
「じゃあ、何で…」
「手に負えねぇ餓鬼がいるから面倒見てくれって、ここの知り合いの医者に頼まれたんだよ」
「餓鬼って…………!」
明らかに、僕のことだ。
そりゃあ、餓鬼かもしれないけどさ。
僕はあからさまに嫌な顔をしてみせた。
「……まぁ、とりあえず飯食うか」
土方先生は不機嫌な僕を無視して、徐に僕の拘束具に手を掛けた。
「えっ、ちょっ…なに」
「何だよ、まさか俺に食わせてもらいてぇなんざ言わねえだろうな?」
「え………でも…」
「別に大怪我してる訳じゃねぇんだから、飯くらい食えるだろ」
「そ、そうじゃなくて………」
外された拘束具と土方先生とを交互に見ながら、僕はひたすら戸惑う。
拘束具、外しちゃっていいわけ?
こういう扱いをされるのは慣れてない。
「ほら、ちゃんと全部食うんだぞ。ここで見てるからな」
土方先生はベッドサイドに椅子を引っ張ってきてどっかりと腰を下ろすと、僕に先ほどのスプーンを手渡してきた。
「………」
ちらりと顔色を伺うと、あの紫紺の瞳で僕のことをじっと見つめている。
……そんなに見られると、食べさせられるより窮屈なんですけど。
「……いただきます」
僕は仕方なく、のろのろとご飯を口に運んだ。
それを見て、早速土方先生が質問を始める。
「お前、家族は?」
「…姉さんだけ」
「ずっと病院暮らしか…?」
「まぁ、大半は。学校とか、ろくに行ってないです」
味気のないご飯を頬張りながら僕は答える。
今日は部屋の外から聞こえてくる誰かの叫び声も気にならないから不思議だ。
「そうか……なら、なおさら早くここを出なきゃな」
「……………」
組んだ膝の上に頬杖をついて、土方先生は窓の外を見ていた。
先生には、何が見えているのか。
僕は知らないけど。
僕がスプーンを置くと、先生がお皿の中を覗き込んだ。
「……おい」
「何ですか」
「何ですか、じゃねぇよ。ネギが残ってんじゃねぇか」
お味噌汁のお椀に綺麗に残った、僕の大嫌いなネギ。
「さぁ?僕には見えませんけど」
「お前………」
土方先生は呆れたように溜め息を吐いた。
「………明日からはきちんと食べろよ」
そう言って、お盆を脇に除ける。
そのまま居座り続ける土方先生に、僕は疑問の目を向けた。
「…他の患者さんのとこに行かないんですか」
「ん?」
「いや、だから…僕はもういいから、」
土方先生はふん、と鼻で笑った。
「さっき言っただろ。お前の面倒見るために呼ばれたって」
「……………」
信じらんない。
この先生、ずっと僕に付きっきりってこと?
…僕、当分解放されなさそうだ。
「もう、先生に話すことなんてないんですけど」
僕はベッドに沈み込みながら言った。
「悪いが、俺はあるんだよ」
「じゃあ、早く済ませてください。僕、先生に早くいなくなってもらいたいし」
態とだけど、すごく失礼なことを言ったのに、土方先生は表情一つ変えなかった。
筋金入りというか、何というか。
「お前、今この瞬間にも、死にてぇと思ってんのか?」
「はい?」
突然のその質問に僕は戸惑った。
土方先生をじっと見つめる。
「なに、それ…」
死にたい訳じゃない。
そうじゃなくて、生きているって実感したいだけ。
「まぁ、いいから答えろよ」
「……知らない」
「じゃ、身体に直接聞けばいいか?」
「え…」
あっと言う間もないほど素早く、僕の身体は土方先生に押さえ込まれていた。
そして間髪入れずに、首筋に何か冷たい物を押し付けられる。
「っな………」
僕は驚いて土方先生を見上げた。
紫紺の瞳の奥に、獰猛な影が見え隠れしている。
「なに、し…て……」
例え頸動脈を切られたとしても、僕は痛みを感じることはない。
痛みを感じられないまま、死ぬだけだ。
嫌だ、このまま死ぬなんて、そんな。
咄嗟に抵抗しようとしたけれど、長いことベッドに縫い付けられていた所為で、身体が少しも動かなかった。
ぐい、と手首を掴んだ手に力を込められ、骨がみしりと不吉な音を立てて軋む。
同時に首に押し当てられた何かがぐっと皮膚に食い込んで、僕はごくりと唾を飲んだ。
「や、…だ……」
小さく呟くと、土方先生はふぅ、と溜め息を吐いて、呆気なく僕から離れた。
「何だよ…ちゃんと嫌がるんじゃねぇか」
「っ………」
僕は抵抗しようとした自分を恨めしく思った。
殺される、そう思ったら、不本意ながら生存本能が働いてしまったんだ。
それから僕は先生の手に握られたものを見て、がくりと脱力した。
首筋に押し当てられていた冷たいものは、ただの金属製のボールペンだった。
その硬さと冷たさに、思わず刃物ではないかと怯えてしまったのだ。
だが、ただのハッタリだった。
僕は今、怯える必要など全くなかったはずなのだ。
抵抗して嫌がるなど、本当は死にたくない、と肯定しているようなものじゃないか。
「ひ、きょう…者……」
恨めしそうに土方先生を見上げると、先生は心外だとでも言いたそうに僕を見返してきた。
「今の、どこがどう卑怯なんだ」
「うるさいっ」
「お前、本当は死にたくなんかねぇんだろう」
「っ違う!」
「どこが違うってんだ?本当に死にたかったら、抵抗なんざしねぇだろうが」
土方先生は訳が分からないという様子で僕を見た。
「僕は……僕は、死にたいなんて一言も言ってない!」
「っ…………」
「自傷癖があるからって、勝手に勘違いしないでください!」
強い拒絶を視線に乗せて、僕は土方先生を睨み付けた。
「僕は……生きてたい。けど、僕の身体は死んでるも同然なんです。だって、生きてるっていうのは、痛みを感じるってことでしょ……?」
戸惑ったように、左右に揺れる紫紺の瞳。
「……分かった」
やがて土方先生は、ポツリと呟いた。
「俺が、生かしてやる」
「な………」
その決心したような揺るぎのない言葉に、僕は自分の心が揺れたのを認めざるを得なかった。
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