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 口を滑らせてはならない点は、ひとつだけ。赤井さんについてだ。
 彼と沖矢さんを同一人物だと認識している素振りを見せてはならない。

「家族はいない、恋人はいない、友人も多忙。頼れるのが小学一年生二人と初対面の僕だけだった。間違っていますか」
「いいえ」

 来た時と同じように、自分の両肘を抱えて壁に寄りかかる。
 よくよく考えると寂しすぎる人間関係である。
 かといって、相談してもいいと思えるほど仲の良い、いつでも連絡を取れる友人は、他人を欺くのが苦手な部類だ。今回のように、犯人の目をかわしつつ、根回しまで済ませることなど到底できなかっただろう。だから下手に相談できなかった。引っ越しを全面的に補助してくれる。それだけで十分だ。

「家族はね、仕方がないのよ。いないものはいないんだから」
「えぇ」

 嘘をつくまでもない。事実上も、戸籍という記録上も、この世界にわたしの家族はいない。

「恋人も、いなくたって不便はないじゃない? あなただって初対面の女を家に置いておけるぐらいなんだもの、いないんでしょう。結局は、縁なのだし」
「……えぇ」

 相手のことを知らないがゆえの、無遠慮な言葉選びをしてみる。
 沖矢さんが気を悪くすることはない。彼は工学部の院生で、研究に没頭しているはずだから。

「友人は……今回みたいな件にうまく対処してくれるような人が、たまたま忙しかっただけなのよ」
「そうですか」

 これも事実だ。案件が片づいたのか、今は黒川さんがそばにいる。
 藤波さんも、忙しい合間を縫ってあれこれと調べてくれていたはずだ。
 明確に助けを求めることはできなかったけれど、単にこちらから連絡を取れなかったというだけの話なら、あながち嘘でもなかった。

「コナンくんと哀ちゃんは、しっかりした子だってわかっていたから。特にコナンくんは、一人で殺人現場の確認を済ませてしまうぐらいには賢いって。そのコナンくんが"頼れる"って評価したのよ。それに、話の中であなたが工学部の院生だって聞いたわ。それなら、アドレスの偽装とか、隠しカメラとか……そのあたりのことも、わかるかと思って」
「……そうですか」
「今は頼って本当に良かったと思ってるわ。助けてくれてありがとう」
「当然のことをしただけですよ。ですが、どういたしまして」

 よし、このまま話を逸らせそうだ。
 沖矢さんも煙草を消して、携帯灰皿の蓋を閉めた。

「そろそろ戻りましょうか?」
「――いいえ。まだ話は終わっていません」

 煙草を吸うのをやめたのは、わたしと同じく真面目に話をしたいからか。
 つまり今のやりとりは、彼にとって片手間にできたことだと。

「あなたは少しも怒るところを見せませんね。感情のままに怒鳴るところが、想像できない」
「あら、わたしもあなたに対して似たような印象を持っているわよ?」
「それは僕が怒鳴るような場面に遭遇していないからでしょう。あなたは犯人に対して怒りを覚えていてもおかしくなかったし、僕の物言いに反論することも考えられました。そうしたかったという気持ちもあるでしょう?」
「……まぁ、少しは、ね」

 何が言いたいのかわからない。何を探ろうとしているの?
 足を組みかえないように意識しながら、思考を巡らせる。

「千歳さんは関わるものすべてに対して、刹那的なものだと考えている印象を受けます」

 ……的確な言葉だ。彼の見る目は正しい。
 やっぱり彼は苦手だ。何も知らないからこそだろうか、暴かれたくないところを暴いてくる。

「自分の感情を吐き出せる相手は、ちゃんといますか?」

 今の彼は、わたし自身のことをとても心配しているらしい。

「随分気にしてくれるのね? 迷惑しかかけてないのに」
「迷惑ばかりかけられたからこそですよ。あなたは人の庇護欲を掻き立てるのが上手なようだ」
「可愛げのなさは友人から太鼓判を押されるほどだけれど?」
「強がりだと思えば可愛いものです。……質問に答えてくれませんか」

 話を逸らさせてくれない。
 思えば感情を剥き出しにして誰かにぶつけたのは、こちらに来てからは降谷さんに"帰りたい"と答えたときだけかもしれない。

「さぁ、どうかしら。いないって言ったら、あなたがなってくれるの?」

 悪戯っぽく笑んで顔を見上げると、沖矢さんは溜め息をついた。

「……意地悪な人だな。もういいですよ、不躾な質問をしてすみませんでした」

 ――嘘つきにこの問答は無意味だな。
 赤井さんの言葉が思い起こされる。わたしの当てにならない答えに、痺れを切らしたのだろう。ただわたしが嘘つきだと"沖矢さんは"知らないから、そうは言わない。

「今回のお礼を、もうひとつお願いしても?」
「内容によるけれど」
「僕と一緒にお酒を飲んでくれませんか。そうですね、千歳さんはバーが好きそうだし、そこででも」

 酔わせて吐かせようという魂胆だろうか。
 自分のペースで飲むのが好きで、少しそれを狂わされると酔いが回ってしまうのは、赤井さんに知られている。断っておくべきか。

「ごめんなさいね。好きな人がいるから、そういうデートのお誘いは断ることにしてるの」
「ホォー……、あなたの心を射止めたのがどんな人物か、気になりますが」

 思い浮かぶ人物は、一人しかいない。
 親身になって心配してくれる? わたしを守ってくれる? それは、白河さんにも風見にも当てはまることだ。
 わたしが暗殺計画について話すべきか悩んだときに、後悔するなら自分も一緒だと、寄り添うことを選んでくれた人だから、だ。
 わたしのことを一番よく知る、最も信頼できる人。それでいて、連絡することをためらってしまう人。
 認めよう、これは恋なのだと。認めてしまえば、降谷さんへの気持ちはすとんと胸に落ちてきた。

「……優しい人よ。一緒に苦しむことを選んでくれた人」

 そして、いちばん刹那的なひと。
 沖矢さんは"そうですか"と相槌を打って、壁から背を離した。嘘を言っていないことがわかったのだろう。誰のことかまでは、わからずとも。
 "戻りましょうか"と促されて、わたしも壁から背を離す。
 強く吹いた風が、煙草の残り香を消し去った。

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