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部屋に戻ってきたけれど、ベッドに寝転がる気にはなれなかった。
ふかふかした一人掛けのソファに腰を下ろして、背凭れに寄りかかる。
赤井さんの視線は苦手だ。心配してくれているとわかるからこそ、余計に。
"安室透のそばにいることは危険だ"、それは彼の心からの忠告だろう。彼が本当に組織の人間であったとしても、スパイであったとしても、何かあってからでは遅い。
それでも、わたしが拾える情報が組織の中枢に潜り込むために役立つのなら、"バカな女"でかまわないから手助けしたい。
降谷さんに暗殺計画の情報を伝えたときに、覚悟はした。要人暗殺、テロ、麻薬や貴金属や盗難品の闇取引と、後ろめたい計画を知ってしまうことは少なからずあった。――その情報がどう使われているかを、わたしは知らない。組織の信用を得るために使っているのか、はたまた防ぐために活用しているのか。知りたいとも思わなかった。
わたしは降谷さんを信頼していて、彼が使うのならその方法が正しいと信じている。
わたしの秘密を暴いて、その秘密ごとわたしを守ろうとしてくれている彼に、少しでいいから報いたかった。そうして、少しでいいから喜んでもらいたい。
「……まるで恋ね」
いずれは捨てなければならないものだ。
元の世界に戻ることができて、きっともうあの会社にはいられないだろうから、また別の会社の経理の仕事を探して。平穏に人並みに生きるためには、捨てなければならないものだ。
わたしを守ってくれた手が、秘密を暴こうとまっすぐに見てくる視線が、心配の色を乗せる綺麗な青い瞳が、嘘つきになったことを褒めてくれる、優しい声が。どんなに捨て難くても、いつかはきっと。
「ちっとも楽しくない……」
リスクと秤にかけながら続く関係の上で、果たして恋なんてものが成り立つだろうか。――ありえない。
正義に身を置く人だから、その味方をするだけでいい。破滅に追いやってしまわないように、こうして気をつけていられればいい。
"たすけて"、なんて。無知のまま聞かれたことだけを伝えるわたしには、きっと許されない言葉だ。
画面を消したスマホを持ち上げて、真っ黒なディスプレイに自分の顔を映した。昨日までよりはだいぶマシな顔で、それでもまだうまく笑えない。
彼に会えるのはもう少し先だと溜め息をついて、スマホと手をソファの上に投げ出した。
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気がついたらソファでうたた寝をしていた。
カーテンに透ける陽の光はまだあって、スマホで時刻を見れば、正午を回る少し前で。
そろそろ昼食の時間だろうか。手伝えることはほとんどないかもしれないと思いながら、リビングに向かった。
哀ちゃんがキッチンで忙しなく料理をしていて、沖矢さんは相変わらずソファでノートパソコンを操作している。
「哀ちゃん、おはよう」
「あらおはよう、千歳さん。昨日より体調がいいみたいね」
今日はじめて会う哀ちゃんに挨拶をすると、哀ちゃんはわたしの顔を見上げて微笑んだ。
「おかげさまで。朝のリゾットもとってもおいしかったわ」
「良かった。果物も食べられたみたいだし、固形物を食べても問題なさそうね。お昼はサラダうどんよ。テーブルを拭いてくれる?」
「えぇ」
濡らして絞った布巾でテーブルを拭いて、盛りつけられたサラダうどんをテーブルに運ぶ。
具材はアボカドときゅうり、トマト。ノンオイルのドレッシングで味つけした、シンプルなものだ。
沖矢さんもキリが良くなったのか作業を止めて、ダイニングテーブルの方へ寄ってきた。
「物足りないならしゃぶしゃぶもあるわよ。乗せる?」
「お願いします」
わたしの体調に合わせたレシピでは物足りないのも当然だ。哀ちゃんも少しだけお肉を和えていた。
さっぱりした味つけでありつつも、口の中で溶け出すアボカドのミルク感が堪らない。少量であっても食が進んでしっかり食べきったわたしを見て、哀ちゃんも沖矢さんも安堵したようだった。
食事を終えて片づけを手伝い、食後のお茶を淹れた。さっぱりしたレモンティーはわたしと哀ちゃん、アイスコーヒーは沖矢さん。
ソファに座ると、沖矢さんがそういえば、と口火を切る。
「博士とコナン君から、管理人がマスターキーを数日間失くしていたことの確認が取れ、杯戸市で犯人がカードキーを複製した店もわかった、と連絡がありましたよ」
「今日はこれから、光莉ちゃんが遊びに来るわ。宇都宮さんには悪いけど、日曜日を指定して博士の家に来てもらおうと思うの。あの展示会のおかげで接点もあるし」
「早いわね……」
「あんなの長引かせちゃダメよ。千歳さんはこの人と一緒にここにいて。万が一にも、あなたが親しい人間に相談したと思われたら困るから」
「えぇ、そうするわね」
コナンくんたちはわたしにこれからすることの段取りを余さず教えてくれたから、特に不安には思っていない。
そこで考えなくてはならないのは、犯人である大学生の処遇をどうするか。
「やめてくれさえすれば、あとは本当にどうでもいいのに」
「示談を申し入れてきたら受け入れるつもりですか?」
「その方がいいかもね。……断った仕事の逸失利益でも弾き出しておく? 少なくともご両親の耳には入れてもらわないと困るわ」
明確に依頼を受けて断っただけでも、結構な金額だ。
今更どうとも思わないけれど、再発防止のために必要なら、多少面倒でもその計算はする気でいる。
その根気を出せるようになっただけ、回復したと思っている。
「その決めたら容赦のないところ、嫌いではありませんよ」
「大学生なら、きっとそのうち就活をするわ。前科なんてつけたくないでしょうし、親の教育のし直しと反省を促せるのなら、それぐらいはね」
「それだけやる気があるのなら十分です」
哀ちゃんが光莉ちゃんとの約束の時間になるからと席を立った。
食後のお茶に使った食器はわたしが片づけることにして、リビングを出ていく哀ちゃんの背を見送る。
何か作業を始めた沖矢さんはそっとしておくことにして、洗い物を終えて部屋に戻った。
またソファでぼーっとしていると、スマホが振動し始めた。着信を訴えてくるプライベート用のスマホを手に取る。表示されたのは名前ではなく番号で、末尾は"2273"。
彼も真実に辿り着いただろうか。部屋のドアに鍵をかけてから、通話ボタンをタップした。
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