06

「疲れた……」

 クラウセヴィッツ夫妻を見送り、宇都宮さんと白鳥警部補とも別れたその足でやってきた法務局。その入り口で、疲れから肩を落として溜め息をついた。
 でっち上げた自分の経歴を頭に叩き込み、身寄りがないと伝えることはできた。
 親も親戚もわからない、挙句に自分の出身地も覚えていないではさぞ困ったことだろう。しかし、家庭裁判所に提出する就籍許可の申立書をもらって、どう書いたらいいかも教えてもらえた。やはり一切の手掛かりがないというは滅多にない事例で、手続きには少し時間がかかりそうだ。
 住所も連絡先もないので、その場で当分滞在するホテルを決めて部屋を取り、そこを郵送物の宛先にしてもらった。
 あとは家庭裁判所で判断がされ、就籍許可がもらえたら、米花区役所に就籍届を出せばいい。
 ひとまず難所を乗り越えることができたことに安心し、銀行で小切手を現金に換えてからホテルの近くのネットカフェに入った。
 使い捨てにできるメールアカウントを取得して、エドガーさんにメールを送った。毎週定時にメールを確認するから、仕事があればメールを入れてほしいというお願いだ。
 それから、事業を始めるにあたって必要な手続きも調べた。税務署にいろいろと届け出を出さなければならない。窓口で相談して、書類をもらえばいいだろう。
 経理に関しては今までやっていたので問題はない。できれば会計ソフトが欲しいところだけれど、ひとまずノートに書き留めておくことにした。
 あとは、米花町を探検したい。どうせできることもなく暇なので、暇なうちにうろうろしてみよう。そうと決まればとネットカフェを出て、ふらふらと歩き始めた。
 歩いて行けた知っている場所は、工藤邸、阿笠邸、毛利探偵事務所、妃法律事務所、米花総合病院、米花警察署ぐらいだろうか。ホテルだとかもあるかもしれないけれど、細かく覚えていないのでわからない。
 あちこち歩いてみたけれど、観察眼鋭く"何をしているんですか"などと訊いてくる人はいなかったので、よしとしよう。
 日も暮れてきたので、ファミレスで夕食を取り、泊まっているホテルに戻った。
 あちらこちらを探検し、利用しそうな施設を見つけておくという作業は三日で終わった。――この作業を中断させた人物がいたためである。

「穂純さん!」

 聞き覚えのある声に思わず振り返ると、私服姿で駆け寄ってくる宇都宮さんの姿があった。
 足を止めて、彼が追いつくのを待つ。

「よかった、やっぱりこの近辺にいたんだね」
「えぇ、まぁ……どうかされました?」
「仕事の依頼だよ。といっても、通訳とかじゃなく、光莉の相手をしてほしいだけなんだけどね」
「……?」

 立ち話もなんだから、と入った喫茶店で、宇都宮さんはわたしに依頼をしようと考えた経緯を教えてくれた。
 宇都宮夫妻は知人が主催するパーティーに参加するらしく、その間光莉ちゃんは一人になるそうだ。ちょうど学校が何らかの行事でお休みになってしまって、日中は面倒を見てくれる人もいない、とのこと。使用人さんも日中は最低限しかいないので、光莉ちゃんにどうしたいかと訊いてみたところ、"怖いおじさんから助けてくれたお姉さんと遊びたい"と、なんとも嬉しいことを言ってくれたのだそうだ。
 前々から行きたそうにしていたというトロピカルランドに行きたいとも言われているようで、費用はすべて負担するから付き合ってやってくれないかと頼まれた。

「もちろん、それぐらいならかまいませんけど……。いいんですか? わたしみたいな身元不詳の女に光莉ちゃんを任せて」
「あ、えーっと……」

 明らかに目を泳がせた宇都宮さんを見て、たぶん白鳥警部補が注意喚起したんだろうなと邪推する。

「……白鳥警部補がわたしをどことなく疑ってらしたのは知っています。普通、報酬を手渡しでなんてあまりやらないもの」
「うん、それは僕も疑問に思ったんだけど……。エドガーさんも、困っているところを助けてくれた君の人柄を信じていると言っていたから、僕もそうしようかと思って。身分の証明ができないだけで、一般人だろう?」

 エドガーさんにも個人について調べる情報網はあるだろう。そこに引っかからないわたしに不信感を抱いても不思議ではない。にもかかわらず、二度目の仕事をキャンセルせずに任せてくれたのか。
 さて、それはさておき自分のことを一般人と言っていいものかどうか。異世界人は一般人ではないと思う。ただまぁ、外国語以外の特殊な能力は何もないので、頷いておくことにする。

「万が一のために光莉には君にもわからないように発信器をつけておくし、携帯も持たせておく。連絡は光莉に取らせてもらえばいいよ」
「そういうことなら、大丈夫でしょうけど……」
「じゃあ、決まりだ。明後日の朝十時に、トロピカルランドの前でいいかい?」
「あ、はい、承知しました」

 明後日とはまた急な。いや、決まったのはもう少し前で、わたしが捕まらずに探し回っていたのか。
 そうでなければあの宇都宮さんが焦ってわたしを探し回るはずがない。

「携帯、まだ直らないのかい?」
「えぇ、まぁ……」

 携帯電話の契約にも身分の証明が必要だし、料金の引き落としに必要な預金口座だって身分証明書を提示しなければつくれない。
 早いところ戸籍を取得して、運転免許でも取りたいところだ。顔写真入りの免許証は、どこでも役に立つ。
 先日取得したメールアドレスだけ伝えて、定期的に確認するとだけ言っておいた。


********************


 することもなく一日が過ぎ、宇都宮さんとの約束通り、待ち合わせの場所、トロピカルランドにやってきた。
 一回遊んでみたかったんだよね、と内心わくわくしながら、宇都宮一家が現れるのを待つ。

「千歳おねえちゃん!」

 幼い声がわたしの名前を呼んだので、振り返ると光莉ちゃんが駆け寄ってきていた。

「光莉ちゃん、こんにちは」
「こんにちはー!」

 腰をかがめて、両手のひらを上に向けて迎え入れる姿勢をとると、控えめに抱きついてきてくれた。
 頬を赤くして興奮気味な様子の光莉ちゃんは、今日をよほど楽しみにしてきてくれたようだ。
 夫婦仲よろしく、奥さんをエスコートしながらやってきた宇都宮さんは、奥さんにわたしのことを紹介してくれた。奥さんは日仏のハーフらしく、とても美人だ。宇都宮さんがフランス語を話せる理由も、ここにあるのだろう。

「穂純さん、すみません……今日はわがままを言ってしまって」
「いいえ! 奥様も、あれからそう日は経ってないのにお元気になられたようで、良かったです」
「娘のことだけが気がかりでしたから。今日はぜひ、千歳さんも楽しんでくださいね」

 そう言って差し出されたのは、一日アトラクションに乗り放題のフリーパスと、お金の入った財布だった。

「領収証をそこに入れておいてくれればいい。自動販売機で買ったらそれもメモを頼むよ」
「わかりました」
「もう、そんなに細かく……」
「わたしも経理関係の職種だったのでわかりますよ。記録はきちんとしておきますから、ご安心を」

 あまり疑うものじゃない、と困り顔の奥さんに、わたしの方からもフォローを入れておく。
 光莉ちゃんがわたしの手を握ってうずうずし出したので、それを察した二人も会話を終わりにした。

「じゃあ、迎えに行くときに光莉に連絡を入れるから。それまでよろしく頼みます」
「はい、娘さんのことは責任をもってお預かりしますね」

 今日は自分の身分のことなど忘れて、光莉ちゃんと一緒に思いっきり楽しもう。
 意気揚々とわたしの手を引いていく光莉ちゃんの後を追う、わたしの足取りは、自分でもわかるほどに軽かった。

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