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 藤波さんは電気料金の話に目を細めて、すぐに"何か思い当たったら教えるよ"と言ってくれた。
 それから少しだけ世間話をした後、藤波さんと別れてすぐに帰ってきた。締切が明後日なら、急がないといけない。
 買ってきたゼリーを冷蔵庫に突っ込んで、仕事部屋に直行した。
 インターネットに繋いでいないパソコンをつけて、USBメモリを差し込む。中には仕事の概要を書いたテキストファイルと、文書に起こして翻訳する音声データが入っていた。
 イヤホンに繋いで音を聴きながら、聞き取った内容を文字に起こしていく。何かの会合だろうか。ざわついていて一度ですべて聞き取れない。何回か再生すれば、聞き取れる限りの音声は文字に起こすことができた。
 日本語でも打ち直して、もう一度聴きながら確認をする。思いの外早く仕上がったけれど、無理をして今日中に渡す必要もないだろう。
 電源を落としたパソコンのディスプレイに映った自分の顔には、ひどい疲れが出ていた。
 藤波さんに明日の待ち合わせの場所と時間をショートメールで伝えて、深い溜め息をついた。


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 三日おきにポストに入れられる写真の山。仕事の書類が来るからと確認は怠らないけれど、ポストを開けようとすると体が震えるようになった。
 見られている緊張感で寝不足になってしまった体はひどくだるくて、立ち眩みも頻繁に起こる。本格的に体調を崩す前に、藤波さんにUSBメモリを渡せたのは不幸中の幸いだった。
 こんな状態で通訳などできるわけがないと、今は翻訳だけ引き受けている状態だ。それも、締切りの遠いものばかり。幸いにもクライアントは体調を崩していることを打ち明ければ心配してくれる優しい人たちばかりで、"快復したらまた依頼するよ"と言ってくれた。
 宇都宮さんが送ってくれた部屋のロックの解除履歴には、明らかに泊まりで仕事をしているときに解除された記録があった。
 この生活が始まって、もう二週間になるだろうか。何か手を打たないとと思うのに、考えることすら億劫になってしまって、何もできずにいた。
 リビングのソファで膝を抱えて座っていると、ヴー、とメールの受信を知らせるバイブ音が鳴る。送りつけられたスマホを手に取って見てみれば、"だいじょうぶ?"という文字。何の救いにもならない心配の言葉を、テーブルに叩きつけたくなった。
 ピンポーン、と来客を知らせる音がした。気だるい体をなんとか起こして、モニターをつける。そこに映っていたのは、コナンくんと哀ちゃんだった。

「……はい」
『千歳さん、突然ごめんね! お願いがあって来たんだけど……お部屋に行ってもいいかなぁ?』

 果たしてこの部屋に、招いていいものかどうか。
 仕事部屋は無事なのだし、そちらに通せばいいだろう。幸い二人は小さい子どもなのだし、最悪の場合哀ちゃんの顔さえ隠せればいい。

「部屋の場所、わかる?」
『うん! 405号室だよね?』
「そうよ。来たら、ドアをノックしてくれる?」
『わかった!』

 無邪気に頷いて見せるコナンくんと、黙したままの哀ちゃんが歩き始めるのを見守って、モニターを消した。
 洗面所で隈が隠せているかを念入りに確認し、アイラインを入れていつもの吊り目にする。
 笑顔の確認もできないまま、到着したコナンくんと哀ちゃんを出迎えた。

「おじゃまします。……!」

 コナンくんも哀ちゃんも、わたしの顔を見てひどく驚いた顔をした。やっぱり、隠せるような状態ではないのだろう。
 立てた人差し指を唇に当てて、しぃ、と囁く。

「上がる?」
「うん!」

 玄関に一番近い、仕事部屋の鍵を開けて二人を通した。
 ソファに座ってもらって、紙とペンを用意する。
 テーブルの上にそれらを置くと、さっそくコナンくんは紙に字を書いた。

『何か困ってることがあるよね?』

 質問のかたちを取ってはいるけれど、断定されている。
 盗聴を危惧して"静かに"と伝えてしまったのだ、無理もない。

『遠い親戚の家に頼れる大人の人がいるんだ。そこなら安全だよ』

 書かれた内容からすると、おそらくは頼れる大人というのは沖矢昴さんだ。
 正体を知っているだけに、あんな切り方をした後では頼りにくい。
 ためらっていると、哀ちゃんがコナンくんからペンを受け取って何か書き始めた。

『何かに怯えているあなたを放ってはおけないわ。一人で心細いんでしょう』

 哀ちゃんは、じっとわたしの目を見てきた。
 代わりに翻訳をした後、一人で行動することを心細く思っている様子だった哀ちゃんを、控室まで送り届けた時のことを言っているのだろうか。
 コナンくんは優しい子だ。困っている人がいれば放っておかない。
 哀ちゃんも、わたしが過去に助けたことがあるから、同じようにわたしを助けようとしてくれている。
 背後に沖矢さんに扮した赤井さんがいるというのは気になるところだけれど、わたしを心配してくれているのもまた本心なのだと、信じられる。
 本当に頼りたい人の顔が脳裏を過ったけれど、気づかないふりをして小さく頷いた。

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