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 ある土曜日、朝食を食べながらニュースを見ていたら、来葉峠で車が炎上したという情報が流れてきた。
 多くの人間にとっては、好奇心をそそられる不可解な事件。
 そしてある一部の人間にとっては、とても大きな意味のある事件。
 赤井さんから仕事を請け負ってから、そう日は経っていない。いつキールから連絡が来るやらと、慌ただしい中での任務だったのだろう。だからわたしのことを調べ尽くすことまではできなかった。
 彼にとっては、きっと些末なこと。これ以上組織に触れるようなことがなければ、無理に探られることはないだろう。
 それからしばらくは、何事もなかった。至って平和に、翻訳をして、時々通訳や買い物のために外に出て、その繰り返し。
 そんな日常の中の朝、食事の片づけを終えて一息ついていると、プライベート用のスマホが着信を知らせた。この番号は、白河さんだ。

「はい、穂純です」
『白河です。ごめんね穂純ちゃん、しばらく大きな案件に取りかからなくちゃいけなくて……藤波君に連絡を一本化してもらってもいい? あいつ引き籠もりだけど、データの受け渡しくらいならするからさ。風見君もこっちで使うから、できれば連絡は控えてほしい』
「ここ最近も変わったことはないし、大丈夫です」
『そっか! 良かった。また連絡できるようになったらこっちから電話するね』
「えぇ。わたしが言うことじゃないかもしれないけど、気をつけて」
『ありがと! じゃあね』

 緊張を感じさせない声。後ろでは風見が鋭い声で指示を飛ばしているのが聞こえたので、電話口の声ほど悠長な状況ではないのだろう。白河さんは実働要員として出て、おそらくその下に風見と数名の捜査員がついて動いている。きっと、藤波さんもそのサポートで忙しい。
 買い物にでも行こうかと化粧をして出かける支度を整えていると、インターフォンが鳴った。
 まだ朝の九時。来客の予定もないのにと思いながら、モニターを確認した。

「……!」

 モニターに映っていたのは、FBIのジョディ・スターリング捜査官だった。
 赤井さんの"死"の直前、連絡を取っていたと知って話を聞きに来たのかもしれない。領収書はアメリカに送ったのだ、こちらの住所を知るのは容易いことだろう。
 ひとまずはと、応答ボタンを押す。

「はい」
『穂純千歳さんね。FBIのジョディ・スターリングといいます。突然ごめんなさい。少し、お話を伺いたくて……』

 カメラに向かって身分証を見せながら、用件を伝えてくる。
 さて、どうするか。部屋に招きたくはない。たしか組織はキールの撮った映像を信じて、赤井さんが"死んだ"ことに疑問は持っていないはず。だから、ベルモットの変装であるという可能性は低い。それでも、警戒するに越したことはない。

「……駅前に、緑の看板を出している喫茶店があるわ。そこに入って待っていて」
『えぇ……わかったわ』

 スターリング捜査官は訝しげな顔をしながらも、そうでなければ話を聞く気はないということを理解して、踵を返した。
 待ち伏せも怖いし、車で行ってそのまま買い物に行こう。
 そう思い立ち、バッグにスマホを入れて部屋を出る。
 しっかりロックがかかったことを確認して、エレベーターで地下駐車場に向かった。
 すっかり乗り慣れたアテンザに乗って、駅前へ。目当ての喫茶店の窓際の席にスターリング捜査官がいることを確認して、近くのコインパーキングに駐車する。
 すぐに喫茶店に入って、まっすぐにスターリング捜査官のいるテーブル席へ歩いた。

「はじめまして、ミス・スターリング。穂純千歳といいます」
「! あなたが……」

 声をかけると、スターリング捜査官は居住まいを正した。
 水を持ってきた店員に紅茶を頼んで、バッグを足元のカゴに入れる。
 既にスターリング捜査官が頼んでいたらしいコーヒーと紅茶が同時に来るまで、少し気まずい沈黙が漂った。
 紅茶にスティックシュガー二本とポーションミルクを入れ、ミルクティーにしてカップを手に取る。

「仕事の依頼、ではないわよね」
「えぇ、ごめんなさい。今はそういう案件は持っていなくて……」

 申し訳なさそうに言うスターリング捜査官。
 何が何でも仕事が欲しいほど切迫した状況でもないので、別に気にしていない。……それに。

「気にする必要はないわ。赤井捜査官、だったかしら。彼からしか依頼を受けるつもりはないから」

 警察組織との連絡線は、できるだけ少ない方がいい。本来なら警備企画課の人たちとだって、絞り込んで連絡を取るべきなのだ。わたしが翻訳家でもあることで、風見は編集者として。適度に歳が離れていることで、白河さんは大学のサークルで仲良くなったOGとして。都合の良い設定が作れたから、データの受け渡しがしやすいように会っているに過ぎない。
 それはスターリング捜査官もわかっているはずで、けれど彼女にはそれに頷けない理由があった。

「彼は……亡くなったわ。数日前に、来葉峠で車が炎上したというニュースが流れたのは覚えてる? その車の中で見つかった遺体が……その、彼のもので……、ごめんなさい」

 赤井さんの死について口にするだけで、涙ぐんでしまうらしい。
 彼が生きていることを知っているからか、付き合いが深いわけでもないからか。特に、何の感情も浮かばない。

「……そう。彼、亡くなったの」
「あなたは彼が亡くなる数日前に会っている。何か……様子がおかしかったとか、記憶にない? 不可解なことも、いくつかあって……」

 残念ながら、来葉峠のニュースも翌朝ようやく知ったというところだ。
 関わりがあるわけでもなし、組織について触れなかったのだから、そんな様子は見せないだろう。
 ミルクティーの甘さを楽しみながら、言葉を考える。

「さぁ。わたしが彼について知っているのは、赤井秀一という名前と、男性であること。それと職業、フランス語が話せないということくらい。それ以上のことは知らないし、彼の変化に気づけるほど深い付き合いもないの」
「そう……」

 スターリング捜査官は明らかに落胆していた。
 けれど、話せることも特にない。いずれは明かされることなのだから、わたしから話す必要もない。

「力になれなくてごめんなさい」
「いいえ……時間を割いてくれてありがとう」

 話は終わりだろう。
 スターリング捜査官が伝票を手に取ったのを確認して、紅茶を飲み干した。

「ごちそうさま。先に出るわね」
「えぇ……本当にありがとう」

 カゴからバッグを取って立ち上がるわたしに、力なく笑いかけてくれたスターリング捜査官。
 気丈に振る舞おうとしているけれど、その表情は弱々しい。
 会釈をして、踵を返した。

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