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「……できた」
カップに残った紅茶を飲み干して立ち上がり、プリントアウトした紙とレコーダーをソファに座る赤井さんの元へ持っていく。音声は取り損ねたけれど、文書ファイルは残しているので問題はない。赤井さんが帰ってすぐに、USBにでも移して万が一に備えておこう。
背凭れに寄りかかり紙を眺めて考え込み始める赤井さんを見て、帰ってくれないかなと考えた。
だめだ、さすがに紅茶でカフェインを摂ってもアルコールのせいで眠い。思考を中断させるのは悪いけれど、考えるのは帰ってからにしてほしい。
「……帰らないの?」
「また明日来てもいいなら帰るが」
逃げられる心配があるなら帰らなかったのか。
「今日会ったばかりの男を家に上げて眠れるほど図太くも緩くもないし、もう眠いのよ……。明日は空けておくから朝十時以降の好きな時間に来てちょうだい」
どのみち明日は翻訳の仕事に打ち込むつもりだったから、問題はない。
欠伸を噛み殺しながら答えると、さすがに眠気に襲われていることが本当だとわかったのか、赤井さんは立ち上がった。
「連絡先を教えてもらえないか」
「明日にして」
もう連絡先を交換するのすら面倒くさい。
ばっさり切り捨てると、また赤井さんが溜め息をつく。
「……わかった」
渋々といったようすで引き下がった赤井さんを玄関まで見送り、閉められた扉の鍵が自動でかかるのを確認する。
深い溜め息をついて、仕事部屋に戻った。
まずはUSBメモリにデータを移し、棚のハンドバッグと入れ替える。それから中身が飲み干されて空になったカップを二つとも持ち、リビングに向かった。
桶に水を溜めてカップを浸け、洗い物は明日でいいかと諦める。
シャワーを浴びて、眠い目を擦りながらスキンケアをして髪を乾かして、ようやっと布団に潜り込めた。
……そうだ、連絡しないと。
布団を頭から被り、真っ暗な中でのスマホの明かりの眩しさに顔を顰めながら、すっかり暗記した番号を打ち込む。
赤井さんは寝室に入れていないし、仕事部屋に盗聴器が仕掛けられているとしても壁越しかつ布団まで被ればさすがに聞き取れないだろう。
時間は夜の十一時、起きていてくれればいいのだけれど。
密やかな願いは神様に届いたらしく、白河さんはスリーコールで出てくれた。
『はい』
「穂純です」
『白河です。どうした? 珍しいね、こんな遅くに』
眠そうでも不機嫌そうでもない声に、少しだけほっとする。
「ごめんなさい……その、えーと……」
『どうしたどうした、FBIか何かと接触でもしたか?』
どう言ったものかと悩んでいたら、白河さんはすっぱり言い当ててきた。
「見てました!?」
『見てないけど。なに当たり?』
「当たりです……」
『あっちゃー……降谷君には黙っといた方がいいかもね。怖いから。それで私に連絡してきたんでしょ』
「彼、意外と短気だし、FBIのこと特に毛嫌いしてるでしょう?」
パチパチとキーボードを叩く音が聞こえる。……まさか、残業か。
忙しそうなところに申し訳ないと思いつつ、仕事ではあると無理矢理納得する。
『そうなんだよねぇ。あ、FBIの国内捜査の許可の確認取れたよ。大丈夫、向こうは合法な捜査だ。それに、できればこっちは動きたくないんだよね。組織は取引邪魔したいっていう話だけど、結局その薬を売り捌いて資金源にする気だからさ。下手にこっちで取引ごと潰せば、降谷君が疑われかねない。FBIが気づいて潰してくれた、って方がいい。降谷くんは対抗したがるだろうけど……事後報告でいいや。私が全責任を負おう。上にも許可はとった』
「白河さん仕事早い」
『まぁね。詳しい経緯は明日聞こう。とりあえず、FBIには協力するって方向で。……眠いでしょ?』
眠気で声がはっきりしないのは感づかれているらしい。
「疲れちゃって……。とりあえず、明日の朝の十時以降に来ると思うんだけれど……」
『オッケー、九時頃警護に行く。連絡するからそれまで普通にしてて。じゃあおやすみ。ゆっくり休むんだよ』
通話が切られて、スマホを充電器のコードに繋いだところで、眠気には勝てず枕に顔を埋めた。
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