55
米花駅まで歩いて、駅前に停まっているタクシーを捕まえる。
乗り込んで自宅マンションの場所を伝えると、ようやく赤井さんは手を離してくれた。
徒歩なら多少かかるが、車なら数分の距離だ。特に会話もないまま到着して、精算しようとしたら赤井さんに遮られて支払いがされ、素直にお礼を言いつつ降りた。
「ありがたいけれど、別に良かったのに」
「君の口を堅くするための保険のようなものだ」
「はいはい」
こっそり連絡する気満々だ、その保険に意味はない。
エントランスに入ってポストを確認し、何も入っていなかったので開けずに奥の扉の横のリーダーにカードキーを通した。後ろから赤井さん以外の人がついてきていないことを確認しつつ、エレベーターの扉の横にもあるリーダーにカードキーを通して、ランプの点いた上階行きのボタンを押す。
非常ボタンを押さない限り、エレベーターもその横にある非常階段も、カードキーがなければ開けられない仕組みだ。
「セキュリティが充実しているな」
「知り合いの物件なの」
「ホォー……」
部屋に着いて、この扉もカードキーで開ける。
数時間ぶりの我が家に、ほっと一息をついた。……そうは言っても、背後に赤井さんがいるので気は緩められないのだけれど。
玄関で靴を脱いで待ってもらっている間に、リビングのソファにかけてあったカーディガンを羽織った。さすがに冷える。
入って左側に二つ並んだ扉のうち、手前の仕事部屋に案内して、来客用のソファに座るよう促した。
「コーヒーでも淹れる? 安物だけど」
棚にハンドバッグごと財布とスマホを入れ、鍵をかけながら尋ねる。
「……いただこう。ブラックでいい」
溜め息交じりに返され、やっぱり仕事に集中している隙に漁る気だったなと苦笑した。
分量どおりにコーヒーをつくって、自分には紅茶を淹れた。糖分も欲しかったので、スティックシュガーを一本入れておく。
コーヒーと交換にレコーダーを受け取って、ワークチェアに座りながらネットに繋いでいないノートパソコンの電源を入れた。
二十分程度の会話だし、繰り返し再生したっていいだろう。ロシア語とギリシャ語を同時に打ち込むのは諦めた。
レコーダーから流れる会話を文字に起こしていく間、赤井さんはコーヒーを啜りながらこちらを眺めていた。時折スマホを弄っていたけれど、邪魔をしないようにと思っているのか声を一切発しない。
暇すぎるのか、煙草を吸えないからか、コーヒーを飲むのも速かった。
ちらとこちらを見てきたので、コーヒーメーカーの置かれた棚の方へ手のひらを上にした手を向けて"どうぞ"と促す。
赤井さんは無言で立ち上がって、コーヒーを作り始めた。
彼が二杯目を飲み終わる頃、ようやくロシア語とギリシャ語、両方の言語での会話を文字に起こせた。
「英語がいい? 日本語がいい?」
冷めて甘みの強くなった紅茶を飲みながら問う。
「君の訳しやすい方で結構」
英語にも慣れてきたとはいえ日本語の方がタイピングはしやすいし、日本語でいいか。
それと、一応聞いておくべきか。
「赤井さんは、暗号を解くのは得意かしら?」
「それなりに。……待て、暗号があるのか」
「地名とかはっきり言わないのよね。日本語を混ぜたらそれこそ不自然だもの」
それこそ、先ほど赤井さんが"米国の警察官"と自称したのと同じ理由だ。
"アメリカ"とか"ビュロウ"だなんて、その手の単語に敏感になっている彼らのそばで言えないだろう。
「……なるほど」
それぞれの言語の下に日本で文章を打ちながら、暗号になっていそうな言葉だけ伝えておく。
赤井さんが考え込むのをよそに、タイピングを続けた。
二十分程度の簡潔な会話を訳すのは容易く、元の会話を文字に起こすのも含めて一時間ほどで終わった。
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