51

 考え事をしたいときは、一人でバーに来るのが鉄則だ。
 いくつか馴染みのオーセンティックバーがあって、そこではバーテンダーに声をかければいいようにしてくれる。
 今日は夜景を一望できる、壁面がガラス張りになったとあるホテルの最上階のバーに来てみた。夜景を楽しめるように店内は薄暗くされているけれど、ボトルやグラスが照明の光をきらきらと照り返して、そちらを眺めるのも目に楽しい。
 ちょうど馴染みのバーテンダーに出迎えられてカウンター席を勧められ、素直に従ってそこに座った。

「お一人で?」
「えぇ、一人で。桜ミルクと、……なにか軽食でおすすめは?」
「桜ミルクなら、今日はミックスベリーの一口タルトがおすすめですよ。ベリーの酸味がミルクのまろやかさを飽きさせないように刺激をくれます」
「美味しそう。それがいいわ」
「かしこまりました」

 バーに女一人で来ていると、話しかけられることもある。
 "人を待っているから"とやんわり断ったにも関わらず、時間をおいて"相手がちっとも来ないじゃないか"ともう一度話しかけてきた男性もいる。返す言葉が思い浮かばず狼狽えたところに助け舟を出してくれたこの馴染みのバーテンダーは、来ればカウンターの中でもわたしのそばに立ち、人が近づいてくると何かしら話しかけてトラブルを避けてくれている。
 何度か話して好みも熟知してくれて、お酒も軽食も口に合うものを勧めてもらえるから、ここはかなり気に入っているバーのひとつだ。
 お酒を口に運び、タルトに舌鼓を打ちながら翻訳の依頼の処理順序を頭の中で組み立てていると、何度か聴こえた入店の控えめなベルの音と共に、フランス語で話す女性の声が聴こえてきた。
 妙に捲し立てるような口調に、不思議に思いながらバーテンダーの顔を見上げる。

「トラブルかしら?」
「少々騒がしいですね、申し訳ございません。どうやら、男性の方は女性の同行を断られていたようですが……何ぶん、英語以外は理解できかねまして」
「女性が話しているのはフランス語よ。そうね、困っているみたいだし、"連れが待ってる"って呼んできてくれない? 男性の方にちょっと興味が湧いたわ。熱烈なお誘いを受けるほどの色男、どんなのか気になるじゃない」
「穂純様がよろしいのであれば」

 苦笑したバーテンダーは拭いていたグラスを置くと、カウンターから出て入り口の方へ歩いて行った。

≪今日は用事があるんだ、勘弁してくれ≫
≪何を言っているのかわからないわ、ねぇいいでしょう?≫

 男性は英語、女性はフランス語。会話は噛み合っていない。一体何なのかと、ちらりと横目でバーテンダーの姿の向こうに見える男女を視界に入れてみる。
 風見のときと同様、見なかったことにしたくなった。
 やんわりと絡められた腕を外しては、粘り強く絡み直される腕にうんざりしているようすの男性。――紛れもなく、FBIの凄腕スナイパーと称される赤井秀一だった。
 どうやら女性の方は英語がわからないふりをして、振り解くのを諦めるまでくっついてこようとしたようである。
 赤井さんは赤井さんでフランス語はわからないながらも女性の魂胆はわかっているようで、小さく溜め息をついている。

≪お客様、お連れの女性がお待ちですよ≫

 そこにバーテンダーが英語で声をかけて、赤井さんは目を瞬かせた。
 無理もないだろう、彼に待ち合わせの予定などあったはずもない。たった今わたしとバーテンダーとででっち上げたものなのだから当然である。
 バーテンダーが体を半分ずらして手でわたしを指し示したので、ひらりと手を振ってからスツールを回転させて向き直った。
 フランス人らしき女性は諦めることもなく、赤井さんの腕を離さない。

≪ねぇ嘘なんでしょう? さっきは連れがいるなんて言ってなかったじゃない≫

 英語がわからないなんていうのはやはり嘘だったのだろう。
 内心呆れながら、スツールから降りて赤井さんに歩み寄った。

≪遅かったわね。約束の時間から何時間経ったと思ってるのかしら≫

 少し不機嫌を装って、抑えた声で話しかける。
 どうか意図に気づいてちょうだいと願いながら。

≪すまない、仕事が長引いたんだ。だが"何時間"は言い過ぎだ≫

 どうやら気がついてくれたようだ。
 話を合わせてくれていることがわかり、内心ほっと安堵の息を吐く。

≪それぐらい待たされた気分よ。おまけに何なの、この女は? 人を待たせておきながらよその女と現れるなんて、信じられないわ≫
≪機嫌を悪くしないでくれ、君と違ったタイプの美女にぐらついたのは事実だが、俺には君だけだ≫
≪言い訳をしないところは褒めてあげるわ≫

 彼の胸に手を添えて、背伸びをする。
 すぐにその理由を察してくれたらしい赤井さんは、顔を女性のいる方に傾けて口元を隠してくれた。女性からは、キスをしたように見えたはずだ。
 呆然としてわたしたちのキスの演技を見る女性を横目で見て、顔を離す。

≪彼が一人じゃないとわかったでしょう、邪魔をしないでちょうだい≫

 フランス語でぴしゃりと言い放つと、女性は顔を赤くして踵を返した。
 英語がわからないふりをしていたことが、フランス語を使えるわたしにばれてしまったと気がついたのだろう。
 お気の毒にとは思ったけれど、困っていたのは赤井さんの方なので結果としては良かったはずだ。
 扉が閉まるのを見守ってから、距離が近いままの彼の顔を見上げた。

[BACK/MENU/NEXT]
[しおり]

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -