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宇都宮さんの控室に戻ると、宇都宮さんはスマホを片手に何やら困った様子だった。
「どうかした?」
「いま君を呼ぶか迷っていたところだよ。実は、ナディアと光莉がお手洗いに行ったっきり戻ってこなくて」
「時間はどれくらい?」
「もうすぐ三十分経つよ。混んでいるわけでもなさそうだったし……何回もかけているけど電話にも出ないんだ」
三十分、か。たしかにただお手洗いに行くだけにしては長い時間だ。
待っているなら待っているで、宇都宮さんの電話に出ることも容易いはず。
「それは心配ね。……とりあえず近くのお手洗いを見てくるわ」
「ごめん、頼むよ」
置かせてもらっていた鞄からポーチを取り出して、控室を出た。
道すがら試しにナディアさんに電話をかけてみるけれど、やはり出ない。十コールを超えるあたりで諦めた。
宇都宮さんの言葉通り、近いトイレは別段混んでいるわけでもないようだった。
化粧スペースで化粧を直しながら、五分ほど待ってみる。設置場所が多いためそう数の多くない個室のすべての人が入れ替わっても、ナディアさんは出てこなかった。
懸念されるのは、何か事件にでも巻き込まれたか、見てはいけないものを見てしまったかだ。
控室から同じぐらい離れた別のお手洗いでも同じことをしたけれど、二人は見つからない。
宇都宮さんに電話をかけると、ワンコールで出てくれた。
『千歳ちゃん、どうだい?』
「一番近い二つのお手洗いに行ってみたけど、だめね、いないみたい」
『どこへ行ったんだろう……』
電話の向こうから聞こえてくる声には明らかに不安が滲みだした。
≪これから業界関係者が挨拶に来るんでしょう? しゃんとしていて。二人はわたしが必ず見つけるわ≫
誰に聞かれているかもわからないからフランス語にして、スマホのマイクに手を添えて囁き声でお願いする。
競合企業の人間が来るのなら、少しでも弱みだと思われそうなものを見せてはならない。
ただでさえ若い彼はやっかみを買っていることが多いのだ。
≪そう、だね。……頼むよ≫
≪任せてちょうだい≫
電話の向こうで、ノックの音が聞こえた。
宇都宮さんが慌てて返事をする間に通話を終えて、スマホをハンドバッグにしまって廊下を歩く。
トイレに行ったついでで、普通何をするだろうか。飲み物を買ったり、せっかく一部の人間しか入れないところに来たのだからと見て回ったり、思い浮かぶとすればこれぐらいだ。
廊下に設置されたラックからホール内の案内図が書かれたリーフレットを一部だけ抜き取って、開いて目を走らせた。
自動販売機はあちらこちらに設置されているようだし、廊下には絵画も飾ってある。行き先が絞り込めない。
これは虱潰しに探すしかない。組織の人間やコナンくんたちと接触する可能性は高まってしまうけれど、組織の人間については気づかないフリでいいのだし、コナンくんだって連れを探していると言えば納得してくれるはずだ。
近くの自動販売機を見て回っていると、ある廊下の角から光莉ちゃんが出てきた。
「千歳ちゃん!」
光莉ちゃんはわたしを見つけるなり、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「光莉ちゃん? 何してたの、探したのよ」
「うん、ごめんね。ママが知らない人に呼ばれて向こうのお部屋に入っていっちゃって、ずっと待ってたの。パパはしばらくしたら忙しくなるって言ってたからお部屋にも戻っちゃだめだと思って……。そしたら足音が聞こえてきて、千歳ちゃんかなって思ったから来てみたの」
「向こうのお部屋?」
今しがた姿を現した角までわたしを引っ張った光莉ちゃんが"あのお部屋だよ"指差したのは、"ホール管理者以外立入禁止"と書かれたプレートが貼ってある扉の部屋だ。角の向こうは突き当たりで、その部屋にしか行けないらしい。
「トイレに行ってから、すぐここに来たの?」
「うん。飲み物買おうねって話してここに来たら、ママが呼び止められたの」
あの混み具合ではどれだけかかっても十分程度。近いトイレからここまでは三分もかからない。
宇都宮さんに頼まれてから、トイレの確認に十分、ここに来るのに五分ほどかかっている。少なくとも三十分は話し込んでいる計算だ。
娘第一のナディアさんが、これだけ長い時間光莉ちゃんを放置していることもおかしい。
居場所はわかったけれど、安全が確認できたのは光莉ちゃんだけだ。
扉からは物音一つ聴こえてこないから、防音設備も整っているのだろう。
ひとまず光莉ちゃんを自動販売機の前まで連れて行って、好きな飲み物を買ってあげた。
知り合いがいた? それなら話し込んで遅くなるからと、連絡ぐらい入れられるはず。
まさか、本当に危険に晒されているんじゃ。
「あれ、お姉さん何してるの?」
耳慣れた声に、思考の糸がぶつりと切られた。
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