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周囲に視線を走らせながら、哀ちゃんと手を繋いで歩く。
目立つ金髪は視界に入らないので、少しだけ安心だ。
誰かに変装している可能性もあるけれど、それで近くにいれば哀ちゃんが何かしら反応するだろう。
「そうだ、名乗ってもいなかったわね。わたしは穂純千歳っていうの」
「……千歳さん。私は灰原哀」
「哀ちゃんね。よろしく」
「えぇ……よろしく」
控室の並ぶエリアまでは道もわかるからと、先導して歩く。
宇都宮さんの控室の前に来ると、部屋に入らずにあたりをきょろきょろと見回していた宇都宮さんがこちらに気づいて、小走りで駆け寄ってきた。
「千歳ちゃん、どうしたんだい? 僕の次のも君の声だったじゃないか」
「この子が読む予定だったみたいなんだけれど、トラブルがあって。あとできっちり請求するから問題ないわ」
「それならいいけど」
手を繋いでいる哀ちゃんを見て、宇都宮さんは苦笑した。
"お人好しめ"と言いたいだろうことが容易に分かる。
「この子を送り届けてくるから、少し外すわね」
「あぁ、もうしばらくは自由時間だし、何かあったら電話をするよ。スマホは持ってるかい?」
「えぇ」
ハンドバッグを胸の高さぐらいまで掲げて見せると、宇都宮さんは安心したように笑って、持ったままだった原稿を引き取ってくれた。
どうやらわたしに次の人の通訳までしたことの理由を聞きたかっただけらしく、すぐに控室に戻っていった。
ドアが閉まってから、哀ちゃんが歩き出した方向に手を引かれるようにしてついていく。
「さっき、請求って言っていたけど……」
「あぁ、別にお金でなんて言ってないわ? また別のかたちで結構。考えておくわね」
哀ちゃんはぽかんとしてわたしの顔を見上げた。
博士が"ジリ貧だ"と言われているのは知っているのだ。哀ちゃんもお金を持っているわけがなし、端から請求しようだなんて思っていない。
「でも、さっきの男の人には内緒よ? 彼には正式に雇われてるの」
スタジオでやったのと同じように人差し指を唇に当てて笑うと、哀ちゃんはこくりと頷いた。
「そういうことね……、わかったわ」
「理解が早くて助かるわ。賢いのね」
「……それなりにね」
中身が十八歳だと知っていれば、やりとりに違和感は覚えない。
それでも一応"歳のわりに大人びている"という印象を持っていることは伝わっただろう。
少し歩いて、ドアの横に"阿笠博士様"と書かれた紙が貼られた部屋の前までやってきた。
ノックをすると、中から朗らかな声が"どうぞ"と返事が聴こえてきた。
ドアを開けて哀ちゃんを先に中に入れ、廊下を目だけで確認して誰もいないのを確認してから部屋に入って後ろ手にドアを閉める。
阿笠博士とコナンくんが、テーブルでお茶を飲んでいた。突然現れたわたしを見つつも、わたしの手を離してテーブルに近づく哀ちゃんの不機嫌な顔にも意識が向いているようだ。
哀ちゃんはテーブルの上に原稿を放って、ポケットに入れていた蝶ネクタイを博士にずいと突き出した。
「博士、これ壊れてたわよ」
「何じゃと!?」
「はぁ!?」
ひどく驚いた声を上げる二人。特にコナンくんの顔色は一気に悪くなる。
「じゃあどうやって……あれはオメーの声じゃなかったよな?」
「この人が読んでくれたのよ。博士の前の、宇都宮貴彦っていう男の人が雇った通訳なんですって」
哀ちゃんがようやく紹介をしてくれた。
「あの宇都宮貴彦の!?」
こういうところであの穏やかな社長の知名度を実感する。
雑誌によく載る彼は、業界はもちろん世間一般にも広く知られているのだ。
これだけ言えば理解してもらえるだろうかと博士のプレゼンのタイトルを口にすると、"たしかにこんな声だった"と納得してもらえた。
「穂純千歳です。困ってるみたいだったから、見てられなくて。余計なお世話だったらごめんなさいね」
「いやいや、感謝してもしきれないぐらいじゃよ!」
「けどよ博士、報酬出せんのか?」
「うっ」
痛いところを突かれたようすの博士に、苦笑いが漏れる。
「わたしが勝手にやったことだし、別にいいわよ。心苦しいっていうなら、わたしが困ってる時にでも助けてちょうだい。でも誰にも内緒よ? 本当はそんなに安くないの」
「……すまんのう」
「いいえ。じゃあ、わたしは戻るわね」
博士に会釈をして踵を返そうとしたら、そっと手を捕まえられた。
遠慮がちで可愛らしい犯人は哀ちゃんで、顔色もだいぶ良くなったようすだ。
「あの、本当にありがとう」
「どういたしまして」
捕まえられていない手で頭を撫でて、手を離してもらった。
何かのかたちで返してもらう、なんて言ったけれど、もう関わりたくないというのが本音だ。
部屋を出る間際にコナンくんにも手を振って、ドアを閉めた。
そこで、はたと思い至る。
しまった。ボロを出さないように、名前だけでも聞いておけばよかった。
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