39

 降谷さんに付き添ってもらって買った車が納車の日を迎え、無事に引き取ることができた。
 結局アテンザセダンの赤にして、あれこれ勧められるままに購入したのだ。
 突然帰ることになって返済ができなくなるかもしれないし、ローンを組む気はさらさらなかったので貯金はごっそり持っていかれたけれど、すぐに取り返せるだろうと不安にならずに済むぐらいには相変わらず通訳に翻訳にと、適度に休みを挟みつつも忙しくできている。
 一通り翻訳し終わった文書を眺めて、長時間パソコンに向き合ったせいで凝った肩を解していると、スマホに着信が入った。

「はい、穂純です」
『宇都宮です。千歳ちゃん、通訳の仕事を依頼したいんだけど』

 仕事の依頼か。
 メモを引き寄せて、ペンを手に取り卓上カレンダーをチェックする。向こう二週間通訳の予定はないし、翻訳もずらそうと思えばずらせる量だ。

「二週間以内ならいつでもいいわよ。日程は?」
『良かった。まず日時は――』

 日程、内容などを確認して、大体の見積もりを伝える。
 一週間後に行われる技術発表会で、宇都宮さんは日本語でプレゼンするけれど、外国人の来場者も多いため専用機器とイヤホンを渡し、それを聞いてもらうので同時に通訳してほしい、ということだった。原稿は予め用意してくれるようだし、読むだけならお安い御用だ。
 主催者側でも通訳者は用意してくれるけれど、通訳料と紹介手数料がかなり高額らしい。
 何度も仕事をしているので大体の報酬の見当はついていたらしく、了承も得られたので詳細に見積書をつくって送ることになった。

『それと、その日にお願いしたいことがあってね。技術発表会にはナディアと光莉も出席して、そのあとパーティーがあるんだけれど、光莉は学校もあるしその前に家まで送り届けてほしいんだ』
「かまわないわ。最近車も買ったし、ドライブにはちょうどいいわね」
『お、買ったんだね。結局マツダかい?』
「えぇ、知り合いにマツダの愛用者がいて。アテンザにしたの」
『なるほど、じゃあ頼むよ。……こちらは詳細な日程と君の行動予定、それから原稿を用意するよ。千歳ちゃんは見積書を送ってくれるかい?』
「すぐにつくって送るわね」
『あぁ、それじゃあ』

 通話を終えて、すぐに見積書をつくって宇都宮さんにメールをした。
 返信もすぐには来ないだろうと、マグカップに入ったミルクティーを啜りながら、スマホから電話帳を開く。
 タップして電話をかけながら、モニターを眺めた。

『風見だ』

 生真面目な声にはすっかり慣れたものだ。
 相手がわたしだとわかっているためもあって、部下に指示を出すときなんかよりも幾分か声が柔らかい。

「穂純です。今いい?」
『あぁ、頼んでいたものか?』
「そう。できたから引き取りに来てもらえる? そんなに急がなくても大丈夫そうだけど。明日は杯戸町に出るから、風見の方でいいのよね」

 つい先ほどまで翻訳していたのは、降谷さんが入手してきたという組織関連の取引文書だ。
 どうやらバーボンに話がくるようなものではなかったらしく、仕方なく掠め取ってきてこちらに翻訳に回されているというわけだ。
 万が一があってはならないと、メールは使わないし、電話でも内容は口にしない。ハッキングやクラッキングを警戒して、インターネットに繋がないパソコンを新しく用意したほどだった。データもUSBメモリに入れて、編集者に扮した風見に原稿を渡す風を装ったり、黒川さんに借りていたハンカチなどの小物を返すとか、贈り物をする風を装ったりしてやりとりしている。この辺りはあちらの都合とわたしの外出先によってまちまちだ。杯戸市に出掛けるのなら風見が、米花町をうろつくのならその近辺で情報収集や表向きのボディーガードの仕事をしている白河さんが対応してくれる。情報共有に関してはあちらに任せきりで、わたしは渡された情報を訳して返すだけだ。

『あぁ。じゃあ明日の三時にいつものファミレスでいいか?』
「うん。茶封筒に分厚いコピー用紙の束入れて、その中に一緒に入れて持ってくね」
『できれば一番上と下は適当に文章を打ち込んでおいてくれ』
「はーい」
『また明日』
「うん、それじゃあ」

 急ぎかもしれないと早起きして翻訳していたので、少し眠い。
 一通り終わったし、お昼寝でもしようかと思い立ってデータを保存し、パソコンの電源を落とした。
 USBメモリは鍵のかかる棚の中にしまい、卓上カレンダーに二週間後の予定を書き込んでおく。
 仕事部屋の鍵をかけて、スマホのスケジュールアプリにも予定を登録して、リビングのソファにブランケットを持って寝転んだ。
 降谷さんにも定期入れに入れていた時刻表を渡して覚えている限りの山手線の駅名を伝えてあるけれど、相変わらず手がかりは得られない。彼も暇ではないから、考える時間もそんなに割けないだろうとは理解しているし、別に急ぎたいわけでもない。ただ、戻れた時にどれぐらいの時間が経過しているのか、それが怖くはある。
 考えるのが怖くなって、眠気に任せて目を瞑った。

[BACK/MENU/NEXT]
[しおり]

「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -