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 風見が友人として接してくれているように、白河さんが先輩の顔をして守りながらいろいろ教えてくれるように、降谷さんも、可能な限りわたしの前では砕けた態度で接して、張りつめることに慣れてしまった緊張の糸を緩めてくれている。
 突然車を買いに行く提案をしてきたのも、宇都宮さんからの情報と風見に話した内容の報告を受けて、わたしが"ある日突然車を買いに行くことになってもすぐにその気になるぐらいには真剣に検討し始めている"とわかったうえでのものなのだろう。
 マツダの車が気になるのは事実だし、サービスしてもらえるならありがたい。車のことに詳しそうな降谷さんが一緒に行ってくれるというのも心強い。
 断る理由は、特になかった。

「すぐに準備してくるね。降谷さんがそう言ってくれるなら、乗らない手はないもの」
「あぁ、ゆっくりどうぞ」

 起きて鏡を見たときは、ひどい顔をしていたものだと思ったけれど。
 いま洗面所に立って鏡を見てみると、気分に影響されてか、かなり改善されたように思える。
 新しいものを買うのには心が躍る。それは服であれ、車であれ、同じこと。
 主には化粧直しを終えてリビングに戻ると、降谷さんはわたしをじっと見た。

「お待たせ、準備できたわよ?」
「あぁ。……こっちの方が見慣れた顔だな」
「そうでしょうとも。外に出るときはいつもこれだもの」

 部屋のカードキーを忘れずに持って、部屋を出るように降谷さんを促す。

「"君"に会うことを許してくれた、と思ってもいいのか?」

 靴を履きながら何とはなしに投げかけられた質問に、目を瞬く。
 あれは、降谷さんを苛つかせるために真実を込めて言ったことだ。

「そんな言葉まで覚えていたの? ……えぇ、許したわよ。風見にもイメージ壊れたって言われちゃった」
「ははっ。まぁ、どちらでも気にしない。穂純さんも気にしてないだろ?」

 部屋を一歩出れば、降谷さんは安室さんに、わたしは強気な通訳者に。
 お互い仮面を被っているようなものだけれど、その下を知っているから気楽なものだ。

「じゃあ行きましょうか、千歳さん。鍵はかかりました?」
「大丈夫」

 今日は車で来ているらしく、エレベーターは地下一階まで下りていく。

「せっかくなんですから、楽しめばいいんです」

 そう、一度は考えたことだ。
 いずれは失くすものなんだから、少しぐらい贅沢をしたっていいんじゃないかって。
 置かれた状況がどんなに理不尽なものでも、その中に少しでも楽しみを見いだせないと、塞ぎこんでしまう。

「そうね、ローン組まずに車を買うって、夢だったのよね」
「おや、あなたの口からそんな即物的な願望が聞けるとは」
「悪くないでしょ? 自由な移動手段が増えるのもいいことだわ。できることが増えるもの」
「そうですね。それに、これまでのあなたよりは人間らしくていいんじゃないですか?」

 悪意もない口調で言外に"以前のあなたは人間味に欠けていましたよ"言われて、どことなくいらっとしてしまった。
 いや、今の現実を受け止めたくないと必死で虚勢を張っていたことに対して、揶揄されているんだとはわかっているけれど。

「あなたたちってたいがい失礼よね。わたし三つも四つもサバ読んでないから」
「嘘だろ」

 悲しいかな鍛えられたわたしの耳は、"降谷さん"のごく小さな呟きを鮮明に拾ってしまったのだった。

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