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受け入れたつもりはなかった。
ここはきっと夢の中で、目が覚めたら出勤しなければならなくて。少し長く眠りすぎているのなら、寝坊だってかまわない。嘘をつくのは心苦しいけれど、熱が出たとでも言えば部長は静養するように言ってくれるだろう。
けれど、夢というにはあまりにも長過ぎる時間を、わたしはこちらの世界で過ごしてしまっていた。
それを踏まえて、これからどうしたいか。
死にたくない。怖い目に遭いたくない。苦痛も味わいたくない。
どれも正しくて、けれど少し違う。
どうしたいか、なんて、無理に考えないようにしていたけれど。
この状況に置かれて、こんな質問をされたのなら、答えなんて、たったひとつだ。
「――うちに、かえりたい」
知っている場所に、わたしの身元が証明できる環境に。
わたしが"いる"ことが、正しい場所に。
帰りたい。家族に会いたい。安心したい。
「――っ」
知らない場所に来てしまった絶望感に苛まれても流れなかった涙が、ようやく機能したらしい。
無意識のうちに溢れる涙が、頬も手も濡らしていく。
あの週に根を詰めなければ、仕事を切り上げて帰らなければ。もしかしたら、ここにいなかったかもしれない。
"たられば"の話に意味がないことは知っている。起きたことはどうしようもない。
けれどそうやって飲み込むには、この異常な状況は、わたしにとって理不尽すぎた。
「ど、して……わたしだったの……!」
右手で口元を押さえて、嗚咽を飲み込む。
そうでもしなければ、みっともなく声を上げて泣いてしまいそうだった。
"帰りたい"と子どもじみた願望を泣きながら繰り返し口にするわたしを、降谷さんはどう思ったのだろう。
だけど、どうしようもない。
生きることに躍起になって、仕事に打ち込めていれば良かったのに。
本心を紐解いて眺める機会など得なければ、こんなにも苦しくなることはなかったはずだ。
悔やんでももう遅い。パンドラの箱をひとたび開けてしまえば、溢れ出る絶望を止めることなどできやしないのだから。
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ひとりで抱え込むには少し重たい秘密を暴いてほしい。だけど精一杯張った虚勢を突き崩さないでほしい。
勝手に心の中に抱いたわがままな欲は半分しか叶えられなかったけれど。それでも、こちらの世界に来てしまったことが現実なのだと突きつけられて、その理不尽に泣くことができたから、心はいくらかすっきりした。
「落ち着いたか?」
絶妙なタイミングでかけられた言葉に、膝の上に置いた手を見つめながら頷いた。
「ごめん、なさい……」
「その様子だと、今ようやく自分の身に起きたことを現実だと受け止めた、といったところだな」
「……さすがね。わたしよりわたしのことをわかっているんじゃないかしら」
いつもの調子で話されるから、ついそれで返してしまう。
テーブルの上に置いたティッシュボックスから数枚引っ張り出して、化粧を擦り落としてしまわないように目元と頬に軽く押さえつけた。
ようやく顔を上げることができて、降谷さんの顔を見ることができた。
降谷さんは感情は読めないけれど凪いだ目で、わたしを見ていた。
「ちょっとだけ、すっきりしたのも事実なの。夢ならいいなって、受け入れるつもりもなかったから。だけど、わたしはここにいる。帰るためには、生きていかなくちゃならない。生きていくには危険なことを、知りすぎている……」
ままならないことばかりだ。
スパイでも何でもないから、知らないふりを通すのだって限界がある。
「……白河さんにね、嘘のつき方を教えてもらってるの。危ない情報を聞いたとき、何を意識すれば動揺を隠せるのかも」
嘘をつくのはわたしのことを調べるうえでのタイムロスを誘発するため。"あの女の言葉など信用できない"と、本人の口という一番の情報源を、一番信用できないものにするため。
動揺を隠すのは、知られたくない情報を口にした人間が、わたしの違和感に気づかないようにするため。
わたしの身を守るための、新しい鎧だ。
「白河さんか……、彼女、やけに穂純さんのことを気に入ってるからな」
それはわたしも感じている。
なんというか、庇護されているような、そんな安心感がある。
「彼女は降谷さんの先輩?」
「あぁ。今の体制だと僕が指示を出すことの方が多いがな。あの人は街中うろついて情報集めるのが仕事みたいなものだし、会えばフォローしてくれるはずだ。ここ数日もそうだっただろ?」
「うん、"黒川"って正反対の名前で出歩いてるのね」
ちょっと面白いなと思ったものだ。
降谷さんは、反対に苦笑いを浮かべた。
「安直だと皆に言われてるのに、やめる気がないんだよ……。さて、穂純さん、落ち着いたみたいだし、外に行けるように準備してきてくれるか?」
「外?」
唐突な話題の切り替えについていけず、つい聞き返してしまった。
外に行くのであれば、確かに準備は必要だ。化粧を直して、手を加えて、いつもの顔をしなければならない。
けれど突然の外出の申し出の意図がわからない。
「車を買うんだろう? 風見が警護のために宇都宮氏に接触して、世間話でマツダの車が気になっていることも聞いている。ご存知の通り僕の愛車はマツダのものだ、懇意にしている店もある。今月はノルマがどうとか言っていて、おそらく紹介すればいつもよりサービスしてくれる」
"どうする?"と答えがわかりきっているとでも言いたげな自信満々の笑みを向けられて、ついこちらも笑ってしまった。
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