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「このことはね、あなたに話していいかも悩んでいるの。聞いたら、あなたは動かざるを得ない。管轄外なら、然るべき機関に連絡をする。……それが、正しいことだから」
「正しいとわかっているのに、思い留まってしまう理由があると?」
「これからの未来が、変わってしまわないか心配なの」

 訥々と、不安を口にした。
 物語の全部を、鮮明に記憶しているわけではないということ。だから、これから相談しようとしていた内容に関わる人物が、重要人物かどうかわからないこと。もしも重要人物なら、それは降谷さんが潜入している組織に関わる人間だろうということ。
 ……だから、自分がいなければ明るみに出なかったであろう人の生き死にに、関わっていいのか判断しかねていること。
 ただでさえ組織に関わる事件では、主人公の江戸川コナン――工藤新一――は紙一重で危険をかわしてばかりいる。APTX4869を飲まされても死なずに縮んだ、ロッカーを開けられる寸前でジンが"こんなロッカーに人間が隠れるわけがない"と思い直して相手が子どもであることを想定せずに捜索をやめた。それがストーリーにスリル感を与えるためのものだとしても、わたしがここにいる以上それは現実だ。虚構のものではない。

「降谷さん、右手見せて」
「え? ……あぁ」

 よく見なければわからないほどに、彼の肌の色に埋もれるようにして走った細い線。

「"たられば"の話に意味がないことは知っているの。でも、わたしは一度見捨てたし、あなたに怪我を負わせたわ」
「見捨てた?」
「……えぇ。死んではいないみたいだから、それは良いんだけれど」

 光莉ちゃんとトロピカルランドに遊びに行ったあの日、"やめておいた方がいい"って、好奇心に突き動かされた高校生探偵に声をかけることができたなら。
 だけどわたしはそれをしなかった。
 江戸川コナンが生まれなければ、未解決のままの事件も助からなかった命もある。
 そんなきれいごとと一緒に、何よりも組織に関わって怖い思いをしたくなくて。
 自分に言い訳をして、これで正しかったのだと言い聞かせた。
 米花町で小さな名探偵と関わってはいないけれど、たびたび新聞やネットニュースに現れる"キッドキラー"に、申し訳ない思いがこみあげてくるのも本当だ。
 少し体温の高い手の甲の傷を、人差し指でなぞる。細く膨らんだ瘡蓋が、指先をざらざらと掠める。

「これも、結局小さな傷だ。穂純さんが怪我をしなくて良かったと思っているし、君が気に病むことじゃない。もう瘡蓋にもなって、治りかけてるんだ」
「えぇ、でも、この傷が現実なの。きっと痛くて、熱くて、ちゃんと守ってもらったわたしにはわからない銃弾の味。それを想像することは、……いま置かれている状況が長い夢だって思い込むには、わたしには生々しすぎた」
「……気にしてるのか? もう侮辱されているなんて思っていない」
「知ってるわ。ちゃんと受け止めてくれたって、わかってる。でも、そうしたら未来予知と同じなの」

 これが現実で、あの日トロピカルランドで、わたしが知るとおりに工藤新一は江戸川コナンになった。
 ここがまったくのパラレルワールドで、現実には薬で体が若返るだなんて無茶が起きるわけもなかったのなら、その方が良かった。それならまったく予想通りにならずとも、気にする必要なんてなかったから。
 降谷さんは感情の読めない表情で、わたしの手元を見た。

「……君は、傲慢だな。君の話から察するに、その封筒の中には人の生死に関わる情報が入っているんだろう?」
「そうよ」
「穂純さんに倫理観が欠如しているとは思えない。きちんと話して俺が然るべき措置をするのが正しいと、そう言っていた」
「だって、人が殺されるのをわかっていて見過ごすなんて、間違ってる」
「そうだ。君は一度"見捨てた"ことで苦しんだ。なら、今度は見捨てないでみればいい。後悔するなら僕も一緒だ、君の話を聞いて動くのは僕なんだから」

 優しい人だ。これから起こる殺人を防ぐことで死ぬ人間が増えたなら、一緒に背負おうと言ってくれている。
 だけど、そんなのはわからないのだ。海の向こうの紛争地域で、支援のかたちを争っている現状。どちらに転べば死者が減るかなんて、わかるはずもない。同様に、ストーリーにまだ出てきていないか、詳細に出てこない程度で重要人物とのつながりがある場合なら、それもわからない。

「物語の中じゃなく、現実に生きていると実感してしまったんだろう? それなら、穂純さんも生きたいように生きればいい。僕だってそうやって生きている。その結果が君の知る未来なら、それはたまたまだ。そう割り切ってしまえばいい」
「……」
「もう遅い」

 積み上げてきた言い訳を、突き崩されたような感覚がした。

「もう、遅いんだ。米花駅の交番でクラウセヴィッツ氏と出会ったあの日から、穂純さんは彼の日常の一部だ」

 それが、決定打だった。
 わたしが関わらなければ、エドだちはあのまま困ってどうしていただろう。商談に同席したのがわたしでなかった場合、宇都宮さんは光莉ちゃんを助けられた?
 とっくに関わっている。もう遅い。
 突き放すような物言いが、こんなにも優しく聞こえるだなんて。

「……わたしは話を聞いただけ、聞こえた話から、関連しそうなことを調べただけ。これが正しいかどうかも、わたしにはわからない」
「殺人が起きることは確実なのか?」
「それだけは、確実なの。本当に実行に移されるのだとしたら、だけれど」
「教えてくれ」

 戯れにするには具体的すぎる話だったし、真剣な空気だった。
 日本語を扱えなさそうな彼らが、暗殺をしに遥々やってきたぐらいなのだから、冗談で言っているのではないと思った。
 当然だろう、彼らにも生活がある。その生活を、壊すことになるのだとしても。
 降谷さんの優しい言葉に縋って、わたしは自分にとって一番苦しくない道を、選ぶのだ。

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