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バーを出ると、入り口のそばに降谷さんが立っていた。
先ほどまでと一転して、胡散臭いまでに爽やかな笑みを浮かべている。どうやら今は安室さんでいるらしい。
外だから当然なんだろうけれど。
さも迎えに来ましたと言わんばかりの態度で話しかけてきた。
「あぁ、千歳さん。帰りましょうか」
「……えぇ」
やっぱり安室さんには慣れない。
家から近くて、明るくて人通りの多い道路を歩くだけで行くことができる。おまけに親切なバーテンダーと知り合えて、お酒も軽食もおいしい。密談に最適な個室もあって、公私ともに使いやすい。お気に入りのバーからは、歩いて十五分ほどでマンションに着いた。
風除室を通り抜けてカードキーで開錠したエントランスのドアをくぐり、エレベーターを一階に呼んで乗り込んで、自室のある四階のボタンを押す。
部屋に帰りつくまで会話はなく、それでも気まずくはない沈黙が下りていた。
盗聴器のチェックをする安室さんに勧められて、寝室に行ってバーに行くためだけに着ていたワンピースから、丸襟のシャツとロングスカートに着替えて、カーディガンを羽織った。
「盗聴の心配はないようだから、話を聞こう」
「……えぇ」
降谷さんを仕事部屋に連れて行き、ソファに座ってもらった。
鍵のかかる棚を開けて、中から茶封筒を二つ取り出す。
ひとつは本当の身分証。もうひとつは十日後に迫った暗殺計画に関する資料。
身分証の入った封筒を、先に彼に手渡しながら、対面に腰を下ろした。
「中を見ても?」
「どうぞ」
降谷さんは封筒の中身を机の上にざらりと出した。
そこから出てきた運転免許証、健康保険証、キャッシュカードやクレジットカード、定期券。それらを見て、降谷さんは小さく息を飲んだ。
ひとつひとつを見分し、説明を求めるようにこちらを見てくる。
「……それがわたしの本当の身分証。米花駅で電車を降りた時、持っていた鞄に入れていたもの」
「偽造には、とても見えないな。……これをつくる、意味もない」
そう、ここまで精巧につくることができるのなら、それを使う度胸があったのなら、慌てて不自然な戸籍をつくって、合宿なんてものにまで参加して真っ当に免許を取る必要なんてなかった。
「自分で免許取って驚いたの。まったく同じだったから」
「……ここに書かれた住所や、健康保険証に書かれた勤務先。調べてもいいか?」
元よりそうしてもらうつもりだ。
わたしが自分で調べるより、警察に調べてもらった方が確実だろう。
結果なんて、わかりきっているけれど。
「えぇ、多分どこにもないでしょうけれど。……いっそあってくれたら、見つかるのなら、その方がありがたいのにね」
「そうだな……。カード類も、いいのか?」
「どうせ使えないし、見つかって偽造だなんだって言われたら堪らないしね。調べたいのなら好きに調べてもらってかまわない。代わりにしっかり保管しておいてほしい、わたしが帰れるってわかったら返してほしい。要求の方が多いけれど、お願いできる?」
「もちろん。ただしこちらにも条件がある」
条件。別に降谷さんのことを大っぴらに口にするつもりはないし、それは降谷さんだってわかっているだろう。
まったく見当がつかなくて、ひとまず聞き返すことにした。
「条件?」
「今後も協力を求めたら、でき得る限りでいいから応じてほしい。もちろん報酬は支払うし、危険が及ぶようなことは絶対にさせない。ただ、穂純さんが持っているパイプは魅力的だし、どんな言語も訳せるのなら情報収集に有用だ」
「それは……もちろん、協力は、するわ」
無意識に、抱えていたもうひとつの封筒を握る手に力を込めてしまった。
降谷さんは安心させるように笑って、封筒に身分証やカードをしまいながら言った。
「どうやら相談というのはそのことみたいだな」
あぁ、やっぱり彼には敵わない。
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