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 昨夜の疲れも碌に取れないまま、ポアロへの出勤に事件の後処理の確認にと忙しなく行動し、どうにか時間を作れたので千歳に電話をかけてみた。前日に通訳の仕事を入れることはないだろうという予測は当たり、千歳はすぐに電話に出た。

『はい、穂純です』
「僕だ。千歳、今から時間はあるか?」
『もちろん。潜入は明日からだもの。荷物は通信機器類も風見に届けてもらって準備が終わってるけど、何か追加?』

 千歳の声からは、あまり緊張は感じられない。
 極端に緊張されても少し困るので、程良く気を引き締めてくれている今ぐらいが丁度いい。

「追加はない。念のために荷物のチェックを……いや、建前だな」
『? 荷物のチェックなら、してもらえるとありがたいなぁ。やっぱり心配だし……』

 聞き取れなかった言葉は諦めることにしたらしい。
 自分に聞き取れないようにした言葉は聞かれたくないことなのだという配慮をしてくれたのだろう。

「あぁ、なら今から行くよ。二十分はかからずに着く」
『うん、お願いします』

 ほんの少しの嬉しさを滲ませた返事が返ってきた。それだけで、溜飲は下った。
 宣言通りの時間に千歳が住むマンションに着き、部屋の中に入らせてもらった。
 あとは持ち出すだけの状態にされていた荷物を確認して、忘れ物もなさそうだと安堵の溜め息をつく。荷物を元に戻していると、千歳が書斎からコーヒーを持ってきた。
 わざわざ書斎のロックを開けて、コーヒーを淹れに行ってくれたのか。紅茶でも水でも構わないのに、気遣いが嬉しい。

「あ、目の前で淹れた方が良かった?」

 コーヒーカップに視線を向けていると、千歳がことりと首を傾げた。
 あまりに気遣われ過ぎな状況に、ふわりと温かくなった胸の内が一気に冷める。確かに疑うのは癖のようなものなのだが、今更千歳にそんな疑念を抱こうとも思わない。こちらが考えている以上に彼女に"信用されている"と思われていないことがわかり、これまでの態度を反省した。

「いや、ありがたくいただくよ」
「どうぞ」

 荷物を戻し終えてソファに座り、テーブルに置かれたコーヒーを一口飲む。
 今日書斎にあったのはクラウセヴィッツ氏か宇都宮氏からの贈り物だろうか。よくこの家に来る二人は、ことコーヒーに関しては拘らずそこそこの値段の物を適当に選ぼうとする千歳に美味しい物を選んで紅茶と一緒に贈っている。淹れてくれたのはその類のものだったようで、普段飲んでいる缶コーヒーが比べ物にならないほど美味しかった。
 隣に座る千歳を見遣る。猫舌なのか紅茶をちびちびと飲んでいた。
 三週間、会えなくなるのか。溜め息をつくと、千歳がカップを置いて顔を見上げてきた。

「もう一日前に来れたら良かったのにな」
「え?」
「これから三週間も会えないんだ、もう一度ぐらい……そう思っても仕方ないだろ」

 正直な思いを目を見て吐露すると、千歳は顔を真っ赤にした。
 それから照れたのかむすっと頬を小さく膨らませて、俯いて腕に米神を押しつけてくる。

「……帰ってきたらね」

 恥ずかしいだけなのか、拒絶はされなかった。
 頭をそっと撫でると、擽ったいのか肩を竦められる。

「藤波と連絡を取る間は、できるだけ同席する」
「本当?」

 千歳がぱっと顔を上げて、また顔を見上げてきた。

「通話は危ないから、チャットになるけどな。ただでさえ"無理なお願い"なんだ、千歳のストレスの軽減のためにも必要だろ?」

 味方のいない空間での生活は、息苦しいだろう。
 白河さんとすぐにコンタクトを取れればいいが、それが難しければどれだけ千歳が平気だと思っていてもストレスになってしまう可能性が高い。
 千歳の信頼を最も勝ち得ていると理解しているからこその言葉を向けると、千歳はくすくすと笑った。

「よーくわかっていらっしゃる。藤波さんがだめってわけじゃないけど……」
「それもわかってるよ」

 藤波も千歳に"降谷さんの方が信頼できる"と言われたところで"それはそうだ"と納得するだろう。
 背中に手を回して宥めるように撫でた。

「状況をできるだけ掴んでおきたいのも事実だしな。現場で困ったことがあれば言ってくれれば白河さんにも伝えるし、欲しい情報があれば調べる。とにかく遠慮なくこちらに伝えること。またあんなのは御免だからな」

 今は"恋人"という相談するのに打ってつけの建前があるのだし、今回は仕事だから大丈夫だろうとは思っているが、心配なものは心配だ。
 それが伝わったのか、千歳ははっきりと頷いてくれた。

「うん、ちゃんと伝える」
「よし」

 ポケットに入れたスマホが微かに振動した。
 メールぐらいなら千歳も気にすることはない。

「……明日は米花駅前に朝八時に、だったな」
「うん」
「通勤の時間帯だ。風見に周辺の警戒を任せるから、見ないフリで頼む」
「了解しました。もう行くの?」

 カップを持って立ち上がると、千歳が少ししょんぼりした様子で見上げてきた。表情に出さないようにしているつもりなのだろうが、気を緩めているのがわかる。素直なところをよく見せてくれるようになったことは喜ばしい。
 できるなら明日の朝まででも一緒にいてやりたい、――だが。
 誤魔化すようにして頭を撫でた。そのまま身を屈めて、顔を近づける。

「別件の処理が少しな。帰ってきたら覚悟しておくように。今はこれで我慢しておく」
「え」

 柔らかい唇に自分のそれを押しつけて、すぐに顔を離した。
 移ったグロスを舐めとると、千歳はまた顔を真っ赤にさせてソファの上で蹲ってしまった。赤くなった耳が髪の隙間から覗いているので、隠しきれていない。初心なところが加虐心を刺激してくるのだが、気づいていないんだろう。

「そういうことする……!」
「耳まで真っ赤だな」

 照れた様子が可愛くて、つい頬が緩む。
 ――いつまで、こうしていられるだろう。
 上からの命令という後押しがなければ、千歳と今の関係になる踏ん切りはつかなかった。もしも、上が千歳を不要と判断してしまったら? "手放せ"と言われるだろうか。このまま関係を続けることを許されるだろうか。
 ふと顔を上げた千歳と、視線が合った。
 千歳はゆるりと口角を上げて微笑む。

「心配しなくても、零さんの利益を優先して動くわ。自分で担保してるでしょう?」
「そうだな、心配はしてないよ」

 千歳は現状、元の世界の身分証一式を警察に預けている。"返して欲しいなら言うことを聞け"と言われかねない状況にあり、それを理解してさえいる。だからこその言葉だが、俺の心配とは少し違うところにあった。
 しかし何か言いたげで、こちらが話したくない内容を意図的に避けてくれたことがわかる。

「カップ、置いておいてくれたらいいから」
「あぁ、ごちそうさま。……本当に、気をつけてくれ」
「ふふ、心強い味方がいるから大丈夫。でも油断しないように頑張るね」

 くどいほどの念押しにも丁寧に頷いてくれた千歳は、にこにこと笑って見送ってくれた。

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