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Dr.アパシーが匿われているであろう城への潜入。その第一段階である白河さんの投入は、カバーの職業が警備業者だということもあり驚くほどスムーズに成功した。
鍛錬と持ち場の警備、簡単な報告書の作成の繰り返しという、本人の普段の仕事量からしたら物足りない内容の業務になっているようだ。仕事を送ろうかと提案したら偶には緩い仕事をさせろと断られたが。
並行して、ジンがFBIとの関わりを疑ったという毛利小五郎に接触し、弟子として近くに身を置くことができるようになった。
そうして千歳との打ち合わせも始めたいところまで来たので、藤波に諸々の準備を任せポアロに出勤することにした。
「おはようございます」
「安室さん、おはようございます! 今日は午後は早めに上がるんでしたよね?」
「えぇ、本業でアポが入ってしまって」
「了解ですっ。ただ私もちょっとお昼頃抜けたくて……」
困り顔で言う梓さんに、にっこりと笑いかける。
今後迷惑をかけるだろうことは容易に想像できるのだ、お互いに融通を利かせられる関係を築いておきたい。
「構いませんよ。梓さんが僕に留守番を任せても問題ないと見てくださるなら、ですけど」
「安室さん仕事覚えるの早いですし、いいと思いますよ! あ、あと今日は買い物をお願いします。ちょっと買う物が多くて……」
「わかりました」
潜入のためのアルバイトの経験ならたくさんある。料理も不得手ではない。マスターも梓さんも良い人なので、喫茶ポアロは潜入先として不満のない場所だ。
細かい点を教わりながら仕事をし、午前のうちに頼まれた買い物を済ませた。スーパーから戻ってきた俺と入れ替わるようにして用事で抜ける梓さんを見送って、買ってきた物を整理しようと取り出していると、入口のベルが鳴った。
そちらを見ると、少しばかりではあるが緊張した面持ちの千歳が入ってきた。両手で肩に掛けた鞄の紐を握っていたので誰がドアを開けたのかと見てみれば、上の階に居候しているというコナン君だった。
千歳の言う"知り合いだと思われるとまずい人物"が誰なのかはわからない。であれば、ひとまずはコナン君にだけ声をかけてみるか。"師匠と親しい人物"なら、懇意にしようとするのもごく自然だ。
「いらっしゃい、コナン君」
袋の中身はひとまず置いておき、カウンターから出る。
屈んでコナン君と視線の高さを合わせた。
「こちらの方は? コナン君の知り合いかい?」
「うん! 穂純千歳さんっていって、通訳と翻訳を仕事にしてる人なんだ」
「へぇ」
千歳は俺に話しかけようとはせず、コナン君が俺と話すのを眺めている。つまり知り合いだとは思われたくないのだろう。
コナン君と話すために屈めていた身を起こし、普段初対面の相手にそうするように笑顔を浮かべた。
「僕は安室透といいます。二階にいらっしゃる毛利先生と同じ探偵なんですが、最近先生に弟子入りしたんです」
「穂純千歳です、はじめまして」
しばらく見ていなかった余所行きの綺麗な笑みを見せられつつ挨拶を交わした。
「席にご案内しますね。テーブル席でよろしいですか」
「うん!」
「えぇ、どこでも」
テーブル席に案内すると、コナン君がひょいと椅子に乗り、千歳をソファに座らせた。
カウンターに戻ってグラスに氷を入れつつ、横目で二人を見遣る。
「千歳さんは安室の兄ちゃんと知り合いじゃなかったの?」
ソファに落ち着くなり千歳に投げられた問いは、まるで"安室透"と千歳の関係を知っているかのようなものだった。
初対面を装った直後に嘘を見破られたかたちになったが、千歳はそれすら予想していたのか笑みを崩さなかった。
「あら、どうして?」
小首を傾げて問う千歳の仕草からも動揺は感じ取れない。
おそらく、安室との関係を知っている誰かがいることも、その誰かとコナン君が繋がっていることも、千歳の予想のうちか、"知っている"ことなのだろう。
「ボクの知り合いが言ってたんだよ! 二人は何かやりとりしてたみたいだって」
襤褸が出ないなら任せておけばいい。
氷を入れ終えたグラスに水を入れつつ、成り行きを見守る。
「……内緒にしてくれるかしら」
千歳は少し悩む素振りを見せて、声のトーンを落とした。
「え? うん」
何を話すのかと思えば、さっぱり記憶にない結婚詐欺師の話が出てきた。
それなりに稼いでいることは千歳の生活スタイルを知っていれば分かることだろうし、だとすれば結婚詐欺師の標的になるのも無理はないという認識をしてもらえると思ったのだろう。
危うく騙されて金銭を巻き上げられる寸前だったことを恥じて、事が露見しないように振舞っているのだと、初対面の振りをしたことにそれらしい理由もつけていた。
トレーにグラスを載せ、おしぼりと一緒にテーブルに運ぶ。
「――ね、安室さん?」
顔を見上げて話を振ってきたので、笑顔を浮かべて頷いた。
「えぇ。まさかこんなところで会うとは」
適当に話を合わせたが、テーブルの横に立ったことで見えたコナン君の視線は、千歳を探るような、好奇心と警戒心を混ぜ合わせたような真剣な光を放っていた。
「そうなんだ。ボクが聞いた話だと、千歳さんの知り合いを助けてもらったってことだったんだけどなぁ?」
「あんまり仲良くない人にはそう言ってごまかしてるの。これで恋人がいない理由もわかったでしょう」
そういえば、ストーカーから匿ってくれたのはこの少年だったか。
当然身近に頼れる人がいないか聞かれたのだろう。家族、恋人――どちらもあのときの千歳にはなく、友人と呼べる相手は連絡が取れないか、事態の対処に向かないかのどちらかだった。
「でも誰かしらね? コナンくんとわたしの共通の知り合いって」
千歳の笑みは、まだ崩れない。
「えーと、誰だったかなぁ? ボク忘れちゃった!」
それどころか、コナン君の方が追い詰められたかのようなはぐらかし方をした。
"安室"と千歳が知り合いであること、"安室"が千歳の知人を助けたことを知っていて、存在を知られたくない人物。安直に千歳といる時の記憶を思い起こして浮かぶのは赤井だ。
薬物の取引を潰したあの晩、千歳は赤井に対して俺のことを"知り合いを助けてくれた人だ"と説明したようだった。公安としてではあったが千歳の知り合いであるクラウセヴィッツ氏を助けたというのは事実だったし、赤井も千歳のその言葉は信じただろう。
別の人物である可能性も大いにあるが、もしも二人の共通の知り合いが赤井であるのなら――コナン君の反応にも納得がいく。赤井が本当は生きているとしたらの話だが。
コナン君と俺が知り合ったのはごく最近で、赤井が"死亡"してからしばらく経っているのだから、赤井の存在を隠したいなら誰から聞いたかなど話せないだろう。
――だが、こんな子供が?
メニューを開く二人を見ながら考えてみるが、千歳におすすめを聞かれて思考を途切れさせた。
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