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 体力が落ちたためか睡眠時間の長い千歳に付き合っていると、自然と己の睡眠時間も長くなる。眠りは浅いながらもゆっくりと休むことができ、体の調子は良かった。
 部屋の中はまだ薄暗く、分厚いカーテンの隙間からも光は入ってこない。
 腕の中の千歳は、まだ寝息を立てている。早朝に起こすのも忍びないと思い、起こさないように抜け出して顔を洗った後、再び隣に寝転がり頬杖をついて千歳の寝顔を見下ろした。
 ほんの少しふっくらとしてきた頬を指の背で撫で、目元にかかる髪を擽ったいだろうとよけてやって。まだうっすらと隈の残る目元を親指でなぞる。蓄積した疲労の色はまだ消えないが、深く眠れているようなのできちんと休めば回復していくだろう。
 撫でる手が気持ちいいのかむにゃむにゃと緩む口元が可愛くて、触れるだけのキスをした。
 千歳が起きていると、あのひたむきな目に見つめられて、汚い感情を抱える罪悪感に襲われる。千歳には純粋な好意を向けられているのに、俺はそれをそのまま返してやれない、不誠実な男だ。
 だからといって眠っている隙に触れるのもどうかという話だが、千歳の頬が緩むからやめられない。
 しばらくそうしていると、分厚いカーテンの隙間からも光が入り込み、部屋の中がまた少し明るくなった。
 ふるりと睫毛が揺れるのが見え、頭を撫でていた手を離した。
 ゆっくりと千歳の目が開き、天井に焦点を合わせる。寝惚けているのかじっと天井を見る姿が猫と重なって、つい笑ってしまった。

「おはよう」

 顔をこちらに向けた千歳に声をかけながら、頭を撫でて体を起こした。

「起きられるか?」
「んー……」

 体には倦怠感が残っているらしい。初めてのことばかりで、疲れがあまり取れなかったのかもしれない。千歳の様子を見る限り、心地良いものではあるようだが。
 腹筋の使い方を知らない千歳は、徐に寝返りをうってうつ伏せになり、手をついてゆっくりと体を起こした。

「……っ!?」

 痛みが走ったのか、千歳は息を詰まらせて腰を押さえ、枕に突っ伏した。
 顔をこちらに向けて見上げられる。

「零さん……、どうしようすっごい筋肉痛」

 困り果てた様子で訴えてきた千歳に、苦笑いが浮かんでしまった。
 無理をさせてしまった申し訳なさと、初めてのことに戸惑うようすに本当に自分が彼女の純潔を奪ったのだという実感から来る嬉しさとが綯い交ぜになった。
 体を起こすのを手伝ってやり、ひとまずベッドの上に座りこませた。

「……普段使わないところに力が入るからな」

 千歳ははたと何かに思い至ったような顔をして、シーツをぺたぺたと触った。

「全部、やってくれた……?」
「あぁ、起きなさそうだったからシャワーも浴びさせた。これも予想がついたしな」

 腰を摩ってやると、千歳は気持ちよさそうに目を細めた。
 痛むなか、べたついた体を清めるためにシャワーに行くのが億劫だろうということは想像に難くなかった。
 案の定、千歳はほっとした顔を見せる。慣れれば平気にもなるのだろうが、最初なのだからと甘やかすことしか頭に浮かばなかった。

「ありがとう……」
「どういたしまして」

 千歳は少しだけ起きるのを億劫がって俺の手を握ったり撫でたりして遊んでいたが、それに飽きると"顔洗ってくる"と言って洗面所に向かった。
 手早く着替えてリビングルームに向かい、朝食にとルームサービスを頼んだ。
 ゆったりとした服に着替えた千歳がリビングルームに顔を出す頃には、テーブルの上に朝食が並んでいた。
 食べ終えて歯を磨くと、千歳もすっかり目が覚めたらしい。仕事のメールのチェックをしていくつかに返信した後、紅茶を淹れ始めた。
 ソファにゆったりと座りストレートの香りを楽しむ千歳を横目に、そろそろ回収に来る頃だろうとルームサービスの食器を廊下に出した。残っていた沸かしたてのお湯を使い、千歳が飲みそうにないインスタントコーヒーを淹れて、カップを持って千歳の横に腰を下ろす。

「示談書は今日、相手の親のところへ持って行く」
「わかった。あれで大丈夫」
「そうか、満足いく結果になったなら良かった」

 安堵した様子を見せる千歳には、加害者の現在の様子も、公安の警護がつくことも伝えるつもりはない。警護のためとはいえ人に見られる状況はまだ不安を抱いてしまうだろう。聞かれれば正直に答えるつもりではいるが、気づかないのならそれでいい。
 マンションのセキュリティを変える工事はまだ数日かかるようだった。生体認証まで導入して、普通のマンションだというのにセキュリティのレベルがどんどん上がっていく。千歳が住む建物のセキュリティが強固になるのは良いことなのだが、いくら元々が宇都宮エンジニアリングの最新技術のテストケースにしている建物だとはいえ採算が取れているのか心配になってくる。あの人のことだから、他で利益を叩き出してはいるだろうが。
 何はともあれ、工事が終わる頃には世間も飽きているだろう。警察に示談したことを伝えれば、不起訴になる確率も格段に上がる。情報はフェードアウトしていって、マスコミも遠ざかるはずだ。
 千歳は俺に時間があることを確認すると、これから行う仕事のスケジュールを確認したいと言ってきた。仕事熱心なのはありがたいことだ。
 面接対策は叩き込むしかないが、経歴などはこちらで考えることにしたため、千歳は本来の仕事の調整さえすればいい。

「他にしておきたいことは?」
「工事が終わったら引っ越して、あとは匿ってくれた人たちにお礼しなきゃ」

 千歳は前に、俺と知り合いだと思われると面倒な人物がいると教えてくれている。
 何となくそれが千歳を匿ってくれた人物の誰かなのだろうということは察していて、つまりは――会うことが、難しくなるわけで。

「……しばらく会えなくなるな」
「あら、そんな風に言ってくれるの?」

 思ったことを素直に口にすると、千歳はきょとりと目を瞬かせた。

「頻繁に会える白河さんや風見を羨ましいと思っていたのは前からだ。言える関係になったから口にしただけだよ」
「知らない人のふりはするけれど、会うくらいはできるでしょう? 情報の受け渡しもあるんだし」

 顔さえ見られればいいとでも思っているのか。ストーカーから解放された翌日に迫った男だぞ、その程度の接触で満足できるわけがない。
 不満を顔に出してみせると、千歳は嬉しそうに微笑んだ。笑うところじゃない、と怒ってやりたいが、心の内を見せることの少ない俺が素直な態度を見せたことを喜んでいるのだろうとわかれば、その気も失せる。

「……家に行ってもいいか?」
「ふふ、いつでもどうぞ」

 事前に連絡さえすれば、時間を空けてくれるのだろう。
 俺の我儘ばかりが通る状況に、呆れられているのではないかと心配になる。
 しかし千歳は相変わらず嬉しそうな顔をしているので、それも杞憂だろうと安心できた。

「さて、そろそろ行くかな。警護は白河さんに交代するが、顔は見せに来るよ」
「忙しくなるの?」
「あぁ、少しな」

 千歳の潜入の準備もあるし、米花町に拠点を移す手筈も整えなければならない。
 深くは聞かないことにしたようで、千歳は"カップはそのままにしておいていいよ"とだけ言って話を切り上げた。
 鞄の中に示談書が入っていることを確認して、千歳に見送られて部屋を出た。
 廊下では白河さんが待っていて、俺の姿を認めると右手をひらりと上げた。

「おはよ。昨夜はお楽しみでしたね」
「おはようございます。張り倒されたいんですか?」
「冗談だよ。つーか伝わらんのかい」
「それは藤波とやってもらえます?」

 どうせゲームの話だろう。
 白河さんはへらりと笑ったが、すぐに苦い顔をして溜息をついた。

「風見くんから情報もらったよ。あのストーカー、純情が過ぎて狂気の域だね」
「えぇ、本当に。余計な不安を覚えさせたくないので、本人には何も言っていません」
「はいはい了解。じゃあ私も昨夜のことを根掘り葉掘り聞く作業に徹しますかね」
「張り倒しますよ」

 仕事もいくらかはできるようだし、白河さんがゲームに付き合ってくれるだろうからホテルに籠りきりでも暇にはならないだろう。
 裏社会に関わらせてしまう後ろめたさに蓋をして、ひとまず藤波と落ち合うことにした。

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