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 相手のサインと捺印が済んだ二枚の示談書が無事手に入ったので、千歳を匿っているホテルに戻ってきた。
 加害者は随分と接触禁止条項に対して嫌な顔をしたようで、母親は疲れた様子で書類を渡してきた。
 白河さんからは、何の問題もなく事情聴取が済み陽が沈んでから引き上げたと連絡を受けている。
 ひとまずは風見に連絡を入れておこうと、部屋の前でスマホを取り出した。
 掛けてみればすぐに通話状態になる。

『はい』
「僕だ。今後の千歳の警護に関して共有しておきたい情報がある」
『何でしょうか』

 生真面目な声の向こうで、紙をめくる音とボールペンをノックする音がした。
 メモを取れる環境なら、今は庁舎に居るのだろう。

「示談自体はまとまったが、加害者本人に少々問題があってな。盗撮盗聴といった犯罪行為は反省しているようなんだが、母親曰く"友人関係からやり直したい"と言っていたらしい。罰金付きの接触禁止条項にもかなり難色を示したそうだ」
『えっ……』

 正直な戸惑いの声が返ってきた。千歳への同情と心配が乗る声色に、正しく伝わったようだと認識する。

『すみません、確認なのですが』
「あぁ」
『その、穂純と加害者は、友人ではないですよね』
「少なくとも千歳の認識は"見かけたら会釈するお向かいさん"だな」
『えっ……』

 戸惑いの声が、更に深いものになった。
 不法侵入をして盗聴盗撮を繰り返し、窶れるほど心身を追い詰めた。だというのに、なぜ友人としての関係を築けると思うのだろうか。そんなところだろう。

「大学生の小遣いでは払えない額で罰金を設定したし、親も監視をしてくれるそうだが、どこまで効果があるか分からない」
『なるほど……。Dr.アパシーの件は引き受けてもらえたんですよね』
「あぁ」
『であれば、潜入捜査を前にして心を磨り減らす要因は遠ざけるべきですね。警護に当たる者に加害者の情報を共有しておきます』

 言いたいことは正しく伝わった。
 マンションの人の出入りを見張る人間がいれば、たとえ住居がふたつ上の階に移っただけだということを知られたとしても、待ち伏せは避けられるだろう。

「頼む。加害者の顔は千歳も知っている、可能な限り視界にも入らないようにしてくれ」
『了解』

 通話を終え、息を吐く。これで仕事が始まるまで千歳の心の平穏は保たれるだろう。
 部屋に入ってみたが千歳はおらず、ベッドルームを覗くとバスルームから微かに物音が聞こえてきた。どうやら入浴中のようだ。
 これから俺が抱くつもりでいるということは、千歳だってわかっているだろう。そのための準備をしているのだと思うと、心が逸る。
 ソファに座り、とりあえずはと示談書をテーブルの上に置く。一番の懸念事項は早々に千歳の頭から排除して、閨事に集中してもらわなければならない。
 静かな室内では、バスルームからも物音がよく聞こえる。
 ドライヤーの音が聞こえ、じきに来るだろうと居住まいを正した。
 スリッパでぱたぱたと音を立てながらリビングルームに来た千歳は、俺の顔を見て心なしか表情を柔らかくした。
 その顔はあどけなく、化粧をしていないことが窺える。潤ってほんのりと色づいている唇が、唯一手を加えられた部分なのだろう。
 吊り目にしない、甘やかなメイクをしているときに会ったこともあるが、素顔を見せられるとまた違う。信頼されているのだと、確かに感じられる。
 ソファに近寄ってきた千歳に示談書を見せ、手渡した。

「無事終わった」

 千歳は受け取った紙をまじまじと眺めて、ほっとした様子を見せた。
 ひとまず望んだ以上の金額の要求と接触禁止条項は罰則付きで通せたので、それを見て安心したのだろう。

「二枚ともにサインと捺印をして、一枚を相手に返せば成立だ。よく読んでそれで良ければ、済ませておいてくれ」

 つらつらと並べ立てられた他の条項は、落ち着いて読んだ方がいいだろう。
 意味がわからなければ自分で調べるだろうし、おそらくは加害者からの接触に不安になっている今は、たとえ俺を信頼してくれているとしても読み落としをしたくはないはずだ。

「わかった」

 案の定千歳は頷いてくれた。
 さて自分もシャワーを浴びてこようとソファから立ち上がる。
 手元の紙に視線を落とす千歳が、これからのことに意識を向けていないのが少し面白くない。
 細い肩に手を置いて、耳元に唇を寄せた。
 ふわりと鼻腔を擽るバニラの香りが心地良い。

「終わったら、ベッドにいてくれ」
「……!」

 千歳はぴくりと肩を跳ねさせ、風呂上がりで上気した頬をかぁっと更に赤くした。
 遊んでいそうに見えて案外初心なところもあるのだとつい口角が上がってしまう。
 不満そうな視線を背中に受けながら、バスルームに引っ込んだ。
 普段よりは時間をかけて汗を流し、備え付けのドライヤーで髪もきちんと乾かした。
 ベッドルームに戻ってみると、電気をつけていない部屋の中で、千歳は言われた通りにベッドにいてくれた。端に遠慮がちに腰を下ろして、手で顔を覆ってはいたが。
 怖気づいてしまったのか、それとも単に抱かれるのを待つだけの時間に羞恥心が溢れただけなのか。暗い中では、いまいちわからない。
 サイドチェストの上に置かれたオレンジランプを点けて、俯く千歳の頭を見下ろした。

「千歳」

 名前を呼び、驚かせないようにゆっくりと手を近づけ手首を包む。顔を覆う手を静かに剥がしてみたが、抵抗はされなかった。
 ついと視線が明後日の方向を向き、握った手首からは少しばかり速い脈が感じ取れる。オレンジランプに照らされていてもそうとわかるほど、頬は色づいている。

「……いいか?」

 自信があるはずの観察眼は、単に緊張しているだけだ、恥ずかしがっているだけだと訴えてくる。
 それでも酷い目に遭ったばかりの体を暴こうとする男の身勝手さに戸惑っているのではないかと心配にもなり、様子を窺う目を離せなかった。
 問いには答えなければと思ったのか、千歳の視線がゆっくりとこちらを向く。
 潤んだ瞳、赤く色づいた頬、細い息を吐き出す唇。その顔に浮かぶのは羞恥と不安、――そして期待。
 恋をしてくれているのだとわかるその様子に、心臓が微かに跳ねた。
 これから起こることをわかっているのにいやらしさを含まない、純粋な視線が痛い。

「……はい」

 躊躇いを含んだ返事は、それでも俺を受け入れようとしてくれていた。
 優しくして、甘やかして、――依存させてしまえばいい。手放すことを惜しく思わせることができればいい。
 それだけで上からの命令を遂行できるし、"千歳が欲しい"という俺の浅ましい欲は満たされる。
 本当なら男に脅えているだろう彼女に拒絶されないことは、その第一歩だ。
 観察することをやめて頬を緩めると、解けた緊張が伝わったかのように千歳の顔も綻んだ。

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