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 部屋を出たところで、白河さんがエレベーターから出てきて姿を見せた。
 事情聴取が終わったのだろう。あとは千歳の付き添いのために、夜まで居てもらうことになっている。

「お疲れ」
「お疲れさまです。ちょっと代わりに示談交渉に行ってきますので」
「え? あぁ……うん、いってらっしゃい」

 エレベーターのボタンを押すと、まだ留まっていたのかすぐにドアが開く。
 乗り込んで、フロントのある階のボタンを押して、"閉"と書かれたボタンを押して。

「……って示談交渉!? ノリが軽すぎないか!?」

 ドアが閉まってしまったので、白河さんの声には反応できなかった。


********************


 指定された示談交渉の場である個室のカフェに行ってみると、案の定加害者の母親が来ていて、聞いていた被害者とはまず性別も違うことに訝しげな顔を見せた。
 本人と話したいという要望は伝えたものの、それが聞き入れられたかどうかは担当警察官から聞いていないのだろう。

「被害者から委任を受けました、安室透と申します」

 人当たりの良い笑みを浮かべて委任状を見せると、相手は不機嫌そうに眉間に皺を刻んだ。

「ご本人と直接お話したいとお伝えしたはずですが」
「えぇ、担当警察官の方からはその旨は伺っています。ただ、当の本人が"自分ではやりたくない"と」
「だからって、弁護士でもない貴方に? こんな物、いくらでも偽造できるわ」

 予想通りの返答に、ならばと委任状をずらして重ねていた印鑑証明を見せた。

「こちらが印鑑証明です。穂純さんご本人から依頼を受けた確かな証明になるはずですが」
「こういった行為は弁護士以外の者は――」
「報酬を得る目的で行ってはならない、ですよね。承知の上ですよ、僕はただ仲の良い知人を助けたいだけですから」

 こちらに何の知識もないと思い、退くのを待っているのだろう。生憎と、退いてやる気はないが。
 その後も俺が代理人を務めることに対して渋ってきたが、こちらは長引こうが一向に構わない心づもりで来ている。俺が代理を務められない理由がないことを懇切丁寧に説明すると、早々に片を付けたい相手は粘っても意味がないと悟ったのか本題に移った。
 形式的に謝罪の言葉を述べた相手が提示してきたのはストーカー行為の示談金の相場の最低額と言われている30万円。

「……本気で仰ってます?」
「相場はこんなものでしょう」
「えぇ、相場はね。ですが、被害者本人が受けた仕事の逸失利益を鑑みるだけでもこの条件では受け入れられません」

 示談金には損害賠償と謝罪の意を込めるものだ。そもそも和解する気などないのだろうか。
 向こうは弁護士、息子に前科をつけたくないからと和解できるように準備してくると思っていたが、読みが外れたか。千歳は裁判が面倒だから示談で済ませられるならそうしたいと言っていたが、これはどうしたものか。

「仕事の逸失利益? たかだか通訳の仕事が三週間受けられなかったことでそんなにも損害が出るものかしら」
「えぇ、一般的な通訳料の相場は半日で6万円でしたか」
「そんなに高くなるはずないわ」
「普通の通訳ならそうでしょうね。彼女は同時通訳を売りにしているので、依頼のほとんどがそうなりますから、通常の相場ですよ。そのうえいくつかの言語を扱えますし、依頼人もVIPが多いのでもっと吊り上がりますね。一日に三件の商談の通訳を引き受けることもあるようですし……」
「もういいです、わかりました。それなら80万でいかがです」

 これで彼女が弾き出した仕事の逸失利益を賄える程度か。単身者の引越し費用は10万にもならないが、千歳が心に負った傷のことも考慮すればまだ足りない。
 さてどうするか、早く終わらせたいというのは態度から窺えるが、あまりふっかければ逆切れされるということも有り得る。騒ぎを起こしたくないのも本音だろうが、感情が理性を上回ってしまえばそれも意味を為さない。
 ……正直に言ってみるか。

「それで金銭的な損害をようやく賄えますね。……失礼ですが、そちらに和解をする気はないと受け取っても?」
「なっ……!」
「あなたのその態度では、とても被害者に"相手が誠意を見せてくれた"とは伝えられません。二週間もの間、盗撮盗聴されて怯えながら過ごした彼女に"仕事の損失だけ賄えたからよしとしてくれ"と?」

 相手には被害者本人も示談を望んでいるとは伝えていない。"謝意があるのなら応じてもいい"という体で来たのは正解だった。

「っ、そもそも! あなたのご友人が息子に勘違いをさせたのが悪かったのではなくて!?」

 やはりこう来たか。
 確かに原因は千歳にあるのかもしれない。ただの世渡りで、それが加害者に好意を抱いていると勘違いさせてしまったという原因が。しかし、それは被害者を責めていい理由にはならないのだ。

「言いたいことはそれだけですか」
「なっ」
「これが最後の忠告です。そちらに和解する気がないのなら、僕はこれ以上話し合いには応じません。弁護士だと伺っていますが、どうやらあなたは"慰謝料"という考え方をお持ちではないようだ。こちらの要求は150万円の示談金と加害者による被害者への接触禁止です」

 こちらが相場もわからないと思っていたようだが、それで示談の場にしゃしゃり出てくる間抜けだと思われたとは心外だ。
 相手は目を眇め、深い溜め息を吐いた。

「……申し訳ありません、取り乱しました。示談金は130万円に下げていただいて、接触禁止条項に罰金を設けることでご納得いただけませんか。正直なところ……息子に接触禁止を言い渡したところで守れるかどうか、疑わしいのです」

 急にしおらしくなった。どうやら自分の子供が犯罪行為を行ったことで、この母親も相当参っているらしい。それでも、弁護士としての矜持はあるのだろう。こちらの要求で頭が冷えたようだった。

「本人に反省の色がないのは、問題に思えますが……」
「盗撮や盗聴をしたこと自体は反省しているんです。ですが、まだ諦めきれないようで」
「彼女には恋人がいます。成就する可能性がなくてもですか」
「あの子はおそらくそれを知らないでしょうから。ただ、"謝罪して普通の友人関係から始めたい"と……」

 いやもうこれは駄目じゃないか。母親の態度からは息子がやらかしたことに対して被害者への申し訳なさを覚えていることが窺える。息子が自らの犯罪行為を反省しているというのも事実だろう。
 しかし、そこから関係修復を望むとは。そもそも"お向かいさん"という認識で何も始まっていない関係なのだから、それを"友人関係から"と言い出すということは、修復どころか進展を望んでいる。
 思わず眉間を押さえると、相手は萎縮したように肩を丸めた。
 先程の態度にも納得がいく。息子の態度がどうにもならないままこの場に出ることになり、焦ってしまったのだろう。できれば本人に注意を促しておきたかったが、そこに俺が出てきた。丸め込んで有利な条件で進められればという思惑もあり千歳には到底聞かせられないやりとりをしてしまったようだが、これは俺が黙っておけばいい話だ。誠意を見せている相手を突き放すほど俺も千歳も暇ではないし、千歳は過程を気にしない。欲しい結果さえ得られれば、あとは興味を持たないだろう。

「わかりました、その条件でいきましょう。ただ、お金さえ払えば会ってくれると思われないかが心配なんですが……」
「私どもで息子の行動は見張ります。罰金の意味もよくよく言い聞かせますので……。金額は10万円ほどでいかがでしょうか。大学生の小遣いとバイト代では間に合わない金額です」
「えぇ、ではそれで」

 パソコンを取り出して、盛り込むべき内容を確認しながら取り決めた条件も入れて示談書を作り上げた。後から改変しないよう、相手にも作った文書データをPDFにして送っておく。
 冷静な状態で話し合ってみれば、それなりに話の通じる相手だった。
 150万なんてふっかけた数字だったが、下げられることを見越しての提示だったので問題はない。そもそも100万ですら納得できる状況だ。"金輪際接触しないでくれるなら"、だが。

「先程の非礼も、お詫びします」
「いえ、気にしていませんよ」

 少しばかり相手に同情的になってしまったが、ひとまずこれで決着は着いた。あとは加害者本人が千歳への接触禁止をきちんと守ってくれるかどうかだ。どの道このあと控えている潜入捜査に向けて千歳には公安の警護もつくのだ。要注意人物として伝えておけば、そうまずい事態にはならないだろう。
 近くのコンビニで印刷した示談書にサインと捺印を済ませてもらう約束を取り付け、いくつかの仕事を片付けることにした。

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