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 示談の準備のため、区役所に行って印鑑証明を発行してもらい、風見に加害者の身辺の調査を頼んだ。委任状はネットカフェで作成して印刷した。
 あとは情報の整理だ。管理人が持っているマスターキーを盗み出して複製。盗聴器を仕掛けて数日間家を空ける日を探り、千歳がいない日に複製したカードキーを使って侵入。配線を弄って四六時中彼女の生活を録画できる環境を作り上げた。その後は数日間盗撮し続け、写真とスマホを送りつけて監視していることを伝えた。解決しようと動けば、駅前に写真をばら撒くと言って脅した。
 動機は彼女の社交辞令。マンションですれ違う際に向けた愛想笑いを、自分への好意からくるものだと勘違いしたことによるもの。彼女にとっては、ただ隣人との関係を円満にしておくための手段に過ぎなかったというのに。
 両親が無理やりにでも子供を庇おうとするのなら、きっとこの点を責めてくるのだろう。息子に勘違いさせたのが悪い、と。
 そんな言葉を、彼女に聞かせる必要はない。やはり代理人を立てると宣言しておいて正解だった。
 風見から送られてきた加害者の情報は、経歴だけの簡単な物ではあったがこの短時間で得られたものなら上々だ。
 男子校に入学してから本人がハッキングやプログラミングに熱意を持ち勉強に取り組み始めたため、学校の中でも外でも異性と接触する機会がなかった。大学に進学してからも勉強熱心だったが、そこに"良くない"友人ができた。彼の暴挙を止めるどころか、便乗して楽しむほど倫理観の欠如した友人が。
 彼の失敗は、隣人との距離感を上手く測れなかったこと、親しくなる相手の人となりをよく考えなかったことにありそうだ。
 どのみち彼女の愛想笑いがきっかけだったとしても、それは彼女が悪いと言うまでには至らない。
 加えて相手が示談を急ぐのなら、突き放せば早々に諦めてくれるはずだ。
 書類の準備も調べごとも終わった。昼食を買ってホテルに戻ると、千歳はスマホと睨めっこをしながら計算を続けていた。

「進捗はどうだ?」
「おかえりなさい。ん、あとはメールの履歴と突き合わせて漏れがないか確認するだけ。もう少ししたら宇都宮さんからもメールが来ると思う」
「上出来だ。昼食を買ってきたんだ、休憩しよう」
「うん!」

 よく寝られるようになり、食欲も出てきて、ずいぶん調子が良さそうに見える。
 今回の件について終わりが見え始めていることも、彼女の気分を明るくさせているのだろう。
 食事を終えて集中力も途切れているようなので、借り物を返すことにした。

「印鑑登録カードは返しておく。印鑑証明は取り終わったからな」
「うん。……何に使うの?」
「いきなり弁護士でもない第三者が現れると、相手も警戒する。印鑑証明をとって同じ印鑑をついた委任状を見せれば、相手も納得するはずだ」
「なるほど、それで」
「……説明不足だった俺が言っても説得力がないかもしれないが、よくわからないうちから大事な物を預けるのは良くないぞ」
「べつに悪用しないでしょ?」

 信頼してくれているのは嬉しいが、もっとこう、危機感を持ってくれないだろうか。
 きちんと目を通すようにと伝えてから委任状を渡し、サインと捺印が必要な場所を教える。
 ふんふんと頷きながら目を通すのを横目に、彼女が作成したリストを手に取って眺めた。事務仕事と金銭管理がずいぶん得意なようだが、そもそも彼女はこちらに来る前にどんな仕事をしていたのだろう。つい顔を見てしまうが、聞くのも憚られる。
 サインをして顔を上げた千歳と目が合った。ただ見ているわけではないとわかったのだろう、首を傾げられた。

「……どうかした?」
「いや、……元々なんの仕事をしていたのかと思って」

 誤魔化すように笑ってみたが、千歳はくすりと笑って頬杖をついた。

「話したことなかったっけ? そこそこ大きい企業の経理部よ」
「経理だったのか。それで計算や記録が得意なんだな」
「お金に関することだけね。数字が扱えるっていっても理系ではないので勘違いしないように」
「まぁ、そうだよな」

 一般的に必要な計算ができるだけ。確かに、数学が得意な様子は見られない。
 必要もない情報だったので特に聞くこともしなかったが、彼女にしてみれば前職を話すような調子で打ち明けられる事柄になっているらしい。
 個人事業で必要な業務を自ら行っていることにも納得がいく。
 最後に印鑑証明と同じ実印を押してもらい、委任状を受け取った。
 気分転換を終えると見直しの作業も一気に進み、宇都宮氏から彼女の引っ越し費用についても返事が来たので、計算が終わった。
 出かけるまで時間があることを伝えると、コーヒーと紅茶を準備された。ありがたく受け取り、口をつける。千歳はスティックシュガーとポーションミルクを入れて甘くし、ふぅと溜め息をついていた。

「そういえば、さっきマスコミがどうとか言っていたけれど」
「あぁ、朝言った仕事のこともあって変に目立つ写真を広められるとまずいし、そんなのは望んでないだろ?」

 犯罪被害者について調べ回るマスコミが多い昨今だ、盗撮された写真をばら撒かれずに済んでも、取材などされたらそれこそ彼女が被害者であることを世に広められかねない。
 マンションの住人とは分け隔てなく接している様子だし、宇都宮氏の方でマンションの鍵のシステムを変えることに重きを置いて説明してくれるということなので近所付き合いに関しては心配しなくても良さそうだ。
 それも、マスコミに広められては意味がなくなってしまうが。
 千歳は暗い顔をして頷いた。

「……うん」
「軟禁状態になって悪いな」
「降谷さんが謝ることじゃないでしょう? 気にしないで」
「……そうだな」

 外に出ることを禁じて、これでは閉じ込めていることと変わりない。
 気分が落ち込まないように話し相手になることを心がけているし、一人で考え事をしたがっている様子なら切り上げて廊下に出る。白河さんも同じようにしてくれているはずだ。
 彼女に探りを入れる必要もなく、好きにさせているので落ち着いて過ごせている様子だ。本当に気にしなくても大丈夫なのだろう。
 ふと、カップを置いて屈んだ彼女の服の襟から、鎖骨が見えた。バーで会うときやドレス姿を見たときにはここまで意識しなかったというのに。
 手慰みに髪を撫でると、気持ちよさそうに目を細められた。猫を撫でているようだ。掌で触れながら首まで手を下ろした。
 "恋人"という関係になったのに、俺はこの下を知らない。悪趣味な盗撮を繰り返した男や操作で必要性に駆られた藤波は見ているのに、だ。

「……やけるな」

 首を触られているというのに特に警戒もせず俺の顔を見ていた千歳は、首を傾げた。
 口の中で"やける"と言葉を転がして、何か思い当たったような顔をする。

「……嫉妬?」
「嫉妬。jealousy」

 誤解のないように伝え、喉から鎖骨にかけてそっと指を滑らせる。擽ったそうに身を捩る千歳に、苦々しい思いを隠さず笑いかけた。

「"俺は見ていないのに"っていう、狭量な男の嫉妬だよ。この下、"暴きたい"って言ったら……怒るか?」

 千歳はきょとんとして、少しの間なにかを考えて、……小悪魔のように口の端を上げて悪戯っぽく笑った。

「……見るだけでいいの?」
「!」

 あぁ本当に、どうしてくれようか。
 見るだけではなく触れてもいいだなんて、とんだ殺し文句だ。この後の約束も忘れて暴いてしまいたくなる。
 自制をかけるように前髪を掻き、無理矢理目を逸らした。

「まさか。こんなお誂え向きの場所で、触れてもいい関係になって。下心を持たないとでも思ったか?」
「隠してくれてたんでしょう? でも、降谷さんのことは怖くないから大丈夫」

 今までの我慢は何だったのか。
 顔を見ると、信頼に満ちた表情を向けられる。

「俺をからかえるならそうだろうな。……今日で蹴りをつけてくる」
「うん」

 千歳の首に触れていた手を引っ込めて、テーブルに置いていた資料を鞄に入れた。
 立ち上がって振り返ると、つられるようにして見上げられる。おやつをもらえると期待する猫のような仕草が愛おしい。
 少しからかってみようと思い立ち、鞄を持たない手でソファの背凭れに手をついて千歳に覆い被さった。何をされるとも疑わない視線。どうしてやろうかと僅かばかり思案する。
 これと思い笑みを浮かべると、千歳が目を瞬かせた。
 身を屈め、柔らかい髪が頬に掠めるのを感じ取りながら耳に口を寄せる。

「今夜、全部暴かせてもらう。……覚悟しておいてくれ」

 耳に息を吹き込むようにして囁くと、千歳は顔を真っ赤にして耳を押さえた。
 姿勢を戻して笑っていると、むくれたような困ったような顔で見上げられる。
 ソファの上で膝を抱えて丸くなった千歳を横目に、さっさと蹴りをつけてしまおうと踵を返した。

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