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 習慣で朝早くに目が覚め、隣ですやすやと眠る千歳に視線を落とした。
 悪夢に魘される様子もなく、穏やかだ。頭を撫でて、ベッドから降りた。
 一度家に戻って着替え、朝食を食べて軽く体を動かして。コンビニに寄ってからホテルに戻ると、彼女は空腹なのかルームサービスのメニューを眺めていた。

「起きたんだな。おはよう」
「おはよう」
「ルームサービスか。何かとるか?」
「ん、このフルーツプレートのが美味しそうだなって思って。でも食べきれるかどうか……」
「食べられるだけ食べればいい。残ったら俺が食べるから」

 でも、と言い淀む彼女を置いて、内線でルームサービスを頼んだ。
 届いた朝食を見て嬉しそうに緩む顔を見られるのだから、なんてことはない。
 気にしていたフルーツは多めに、それ以外はバランス良く食べて、やはり残してしまった。以前の彼女なら一般女性が食べられる量なのだから平気だったのだろうが、今は状況が違う。回復している途中なのだから、体が欲するだけ摂取すればいい。
 残りを食べ空いた食器を廊下に出して戻ると、千歳が食後の紅茶を飲みながら口を開いた。

「そういえば、白河さんがわたしの安全確保が優先とか言っていたんだけど……」

 元々は白河さんに話してもらう手筈だったが、千歳の要望で警護を俺に代わったのだ。
 タイミングもなかったので、話していなかった。

「あぁ、そのことか。警護を交代したから話しそびれたな。この件に蹴りがついたら、協力してもらいたい案件がある」

 コンビニで買ってきた缶コーヒーを開けながらソファに腰を下ろす。
 いつもと事情が違うことを察したのか、千歳はきょとんとして首を傾げた。

「……いつもの翻訳ではなくて?」
「あぁ、……いわゆる潜入捜査だ」

 危険なことはさせないと約束したにもかかわらず、潜入させようだなんて無理がある。
 案の定、彼女はぴくりと身動ぎした。
 Dr.アパシーというフィンランド人の科学者に接触し、友好関係を築く。それが彼女に協力してもらいたい内容だ。噛み砕いてそれらを説明し、サポートに入る人間が白河さんと俺であることを確認された。
 この人選は、組織が関わっていることに加えて、彼女が安心して潜入できる体制をつくるという目的を持ったものだ。
 彼女は少し考えて、こくりと頷いた。

「それならやる。今回助けてもらっちゃったし、恩返しができるならするわ」
「……そうか、ありがとう」

 少しほっとした様子を見せられる。
 トラウトのときのように彼女自身が狙われているわけではなく、人里離れた場所で過ごすことになる。
 ストーカーだった男がいて、彼女に探りを入れる人物も多い米花町から離れる理由が欲しかったのかもしれない。
 鞄の中で、スマホが着信を知らせ出した。

「……っと、悪い」

 断りを入れて、白河さんから預かったスマホを取り出す。穂純さんの物だとわかりやすく示すためのレザーカバーを折り返し、通話音量を下げて電話を取った。
 このスマホにかかってくる電話なら、相手は今回のストーカー事件に関わる人物だ。彼女に聞かせても大丈夫な内容だとわかるまでは、聞かせたくない。

「はい」

 電話の相手は、警察署の人間だと名乗った。今回の事件の担当になった、とも。

『こちらは穂純さんの携帯でお間違いないでしょうか。警護の方ですか? 事情聴取のお願いと示談の申し入れがあったことをお伝えするために電話をさせていただいたのですが』
「えぇ、穂純さんの警護を引き継いだ者です。……聴取と、示談の申し入れですか?」

 ゆっくりと言葉を発してみると、彼女は"示談"という言葉に大きな反応を見せた。
 体を強張らせ、膝の上で手を握り締めている。

『はい。今後の連絡はこちらの携帯にすればいいでしょうか?』

 彼女が会いたくないなら、会わなくてもいい。
 少しでも緊張が解ければと、頭を撫でた。彼女はほっとして肩の力を抜いてくれた。

「はい、この番号でしたらかまいません。先方は直接交渉を望んでいるんですか?」
『えぇ、加害者の母親が、"自分は弁護士だ"と言っていまして。もちろん強制ではありません』
「そうですか。本人は加害者ともその親族とも顔を合わせたくないとのことですので、代理人を立てますよ」
『そのようにしてください。それと、今日の午後二時半に聴取に伺いたいのですが。事前に黒川恵梨さんからお話を聞いておき、それについて確認する、という形を取らせてもらえればと思います』
「二時半ですね、わかりました、では」

 通話が切れたスマホをテーブルに置き、溜め息をつく。
 弁護士だという人間が直接交渉をしたいと一般人に向けて言ってくる――これは、丸め込む自信があるからだろう。
 本人はとても"会ってもいい"と言いそうには見えなかったので特に意見も聞かずに断ったが、良かっただろうか。

「面倒事?」
「先方は親が弁護士らしい。示談交渉を直接したいとのことだが、断った。弁護士の知り合いはいるか?」
「残念ながら。……うーん」

 どうやら代理人を立てること自体は希望したいようだ。
 ただ、信頼できる弁護士の当てがない。宇都宮氏の会社の顧問弁護士もいるが、今の彼女の状態で初対面の相手にいろいろと説明するのは難しいだろう。彼女が"知っている"人物を除いて。そういった心当たりを聞いてみたら、"法曹界のクイーン"と呼ばれる妃弁護士の名前が出てきた。多忙な弁護士だ、女性だということもあり親身になってはくれるだろうが、そもそもこの急を要する案件にあの引く手数多の弁護士を引っ張ってこられるかと言われれば、答えはノー。風見が抱える協力者は、今は少し忙しいのだったか。
 それなら、俺でもいいだろう。伊達に法学部を出たつもりはない。

「……最低限の希望はあるか?」
「え? 金輪際接触しないでくれるならいいかな……。あとはまぁ、望めるなら体調を崩して断った仕事の逸失利益と、宇都宮さんが手配してくれる引越しの費用と。それぐらい」
「そこに慰謝料を上乗せだな。その計算と引越し費用の見積もりの取り寄せはできるか?」
「うん、メールで確実に内容がわかるものだけなら……。引越しの見積もりは宇都宮さんに言えばメールで送ってもらえると思う。待って待って、どうするの」

 聞かれるがまま答えていた彼女が、ようやく俺が何かしようとしていることを理解した。
 示談交渉は報酬に関する制約はあるが誰でもできること、そして交渉を俺がするとして最低限つけられる条件を伝えると、彼女は困ったような顔で見上げてきた。

「……ちなみに降谷さんも安室さんも弁護士では?」
「ないな」
「……本当にいいの?」

 見返りを求めないことを気にされているらしい。
 今は"恋人"というはっきりした理由もあるというのに。あと一押し、だろうか。

「実は外ではマスコミが"弁護士の子がストーカーをした"と騒ぎ立てている。こうして退避してもらっているのも、少なからず被害者の情報を得ようと動き回っている人間がいるからなんだ。相手はおそらく、できれば前科をつけずに早々に田舎に引っ込みたいと考えている。焦って早期解決を図ってくる相手に、俺が交渉ごとで負けると思うか?」

 千歳はふっと頬を緩めた。

「思いません。……お願いしてもいい?」

 尋ねる彼女の顔には安堵の色が滲んでいた。
 事情をきちんとわかっている俺が対応するなら、彼女も安心してくれるだろう。
 やってほしいことを伝え、突然現れた代理人だと名乗る男など信用もされないだろうと、印鑑証明を取るための印鑑登録カードを預かった。

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