01

 "千歳が事故に遭った"。
 藤波からその連絡を受けて、梓さんに事情を話しアルバイトを早上がりさせてもらった。逸る気持ちを抑えて病院に向かうと、聞いていた病室の前に警視庁の高木巡査部長が立っていた。近づくと、こちらに気がついた彼は不思議そうな顔をした。

「安室さん?」
「知り合いの刑事から、穂純千歳さんがここに運ばれたと聞いたんです。彼女は身寄りがないので、家族に連絡は取れなかったでしょう?」
「えぇ……お知り合いということでしたら、どうぞ中へ。先ほど目が覚めたんですよ」

 ノックをして、返事を待ってから開けられた入り口を高木刑事の後に続いてくぐる。
 ベッドの上で起き上がっていた千歳は、まだぼんやりしているのか反応が薄い。
 額と右腕に包帯を巻いている。藤波が状況はまだわからないと言っていたから酷い怪我を想像していたが、起き上がれているあたり、そう酷いものではないらしい。

「高木刑事」
「穂純さん、安室さんとお知り合いだったんですね」
「え……?」

 彼の言葉に、千歳の瞳が不安そうに揺らいだ。
 先程から、少しおかしい。俺のことが視界に入っているはずなのに、千歳は反応しない。
 その違和感を明確にする言葉が、千歳の口から発せられた。

「その人……誰ですか……?」

 高木刑事は戸惑った声を上げ、俺を見た。
 額に包帯を巻いていることから、頭を打ったことは明白だった。だとすれば、記憶障害を起こしていてもおかしくはない。

「……彼女、頭を打っていますよね。コナン君を呼んでもらえますか?」
「あ、あぁ……そうですね、確かめましょう」

 連絡を受けて飛んできてくれたコナン君を見て、千歳はあからさまに安堵したような表情を浮かべた。
 高木刑事から事の次第を聞き、コナン君は信じられないと言いたげに千歳を見る。

「千歳さん、本当にこの人のことわからないの?」
「えぇ……大事なことがすっぽり抜け落ちているような感覚はあるのだけれど……」
「そっか……。あのね、安室さんは千歳さんの恋人だよ」
「えっ」

 千歳は俺を見て、コナン君の顔を見て、もう一度俺の顔を見た。

「うそ……」
「ウソじゃないから! あっ、灰原のことや昴さんのことはわかる?」
「わかるわ。博士のことも」
「風見さんと、黒川さんと藤波さんは?」
「えぇ、覚えてる」
「じゃあ本当に安室さんに関する記憶だけないんだね……」

 コナン君に同情の視線を向けられた。
 千歳は困ったような顔をして俺の様子を窺っている。

「コナン君、穂純さんに話を聞きたいんだけどいいかい?」
「あ、ごめんなさい高木刑事! ボクも一緒に聞いていい?」

 よくよく見ると、千歳はベッドに載せられたコナン君の手を握っていた。普段は接触を避けている警察関係者と"初対面の男"に囲まれている状況に緊張していたのだろう。高木刑事はその様子を見て、快く許可してくれた。
 部屋の片隅にあったパイプ椅子を持ってきて、距離を置いて座った。
 高木刑事はコナン君をベッドの端に座らせると、自分はベッドの脇の丸椅子に座り、手帳を取り出した。

「えーと、それじゃあ事故当時のことをいくつか聞かせてもらいますね」

 話を聞くと、千歳は歩道に突っ込んできた車から子どもを助けようとして、子どもを抱えて車の進行方向から逃れようとしたらしい。ところが靴も動きにくい物で、ましてや子どもを抱えて素早く動けるような運動能力もない千歳の背中に車のサイドミラーが当たり、突き飛ばされてよろめいたところで標識のポールに子どもを庇った右腕と頭を強打したのだということだった。
 子どもの母親が近くにいて、すぐに救急車を呼んでくれたのだそうだ。
 暴走したのも飲酒運転と居眠り運転が重なったためだったらしい。明確な殺意があったわけではないことに、少なからず安堵した。

「今日は一晩安静にしていただいて、明日には退院してもいいそうですよ。着替えなんかはどうしましょうか」
「安室さん、取ってきてあげられる?」
「……それは構わないけど、彼女が嫌なんじゃないかな」

 今、千歳にとって俺は他人から自分の恋人だと聞かされた見知らぬ男だ。
 部屋に入られることに不快感を覚えるかもしれない。
 しかし千歳は首を横に振った。

「……変なことはしないでしょう? あの部屋、生体認証だけど……連絡しておく?」
「入れますよ。貴方が登録してくれたので」
「そ、そう……そんなことまでしたのね……」
「心配ならボクも行くよ?」
「それじゃあお願いしようかしら」

 千歳はコナン君に随分と気を許している。そうさせるような実力と人柄がこの少年にあるからだとわかってはいるが、一方的に他人扱いされているこの状況下では羨ましいことこの上ない。
 ともあれ今は、必要な物を取ってきて不便のないようにしてやることが先決だ。
 少し眠ることにした千歳を置いて、着替えを取りに千歳の家に向かった。

「安室さん……大丈夫?」

 コナン君が訊きたいことは何となくわかっていた。千歳を大事にしていることは、この聡明な子供にも知られている。
 あんな風に他人行儀に接されて、剰え警戒されて、心が荒んでいないかと気にしてくれたのだろう。

「何がだい?」
「……ううん、なんでもないよ」

 こちらがはぐらかす素振りを見せれば、コナン君はあっさりと引いてくれた。
 勝手知ったる千歳の家には、俺が使っている日用品も置かれている。俺に関する記憶がないのなら、千歳にとってこれらは不気味な物でしかないだろう。一人暮らしで、誰かを頻繁に泊めるような生活もしていないのに、当たり前のように"誰かの物"が置かれている。

「安室さん、どうかした?」

 考え込む俺に、コナン君が声をかけてきた。

「いや……ここに置いてある物を、どうしようかと思ってね」
「着替えとか?」
「あぁ、着替えはともかくとして……、枕や歯ブラシは気持ち悪いんじゃないかな」
「ちゃんと教えてあげれば千歳さんは納得すると思うけど……」
「……そうだといいんだけどね」
「とりあえず、明日千歳さんを連れて帰ってきてみようよ! 慣れ親しんだ部屋に帰ってきたら何か思い出すかもしれないよ」
「……あぁ、そうしてみよう」

 着替えを一式と、出張用の荷物の中にあるスキンケア用品、最低限必要とするだろう化粧品を大きめのバッグに入れた。
 コナン君がスマホを取り出し、耳に当てる。どうやら着信があったらしい。

「もしもし、千歳さん? どうしたの? 何かあった?」

 コナン君にちょいちょいと人差し指で合図をされ、しゃがんでスマホに耳を寄せた。

『靴がね、ヒールが折れて履けなくなってて。玄関の靴箱から、適当に一足持ってきてもらえないかと思って……』
「わかった、安室さんに聞いてみるね」
『お願いね』

 千歳はほっとした様子でコナン君への頼み事を終えた。
 通話が終わって俺の顔を見上げたコナン君は、呆れたような顔をした。

「安室さん……顔怖いよ」
「……ごめん」
「ボクは別にいいけど、千歳さんにその顔しないでね。千歳さんが安室さんを怖がってもボクにはどうにもできないから」
「善処するよ」

 頭を打っているのだしよろめいても危ないからと、ヒールの低い靴を選んで荷物に加えた。
 戻る途中で毛利探偵事務所に寄り、コナン君を帰らせた。千歳の命に危険がないことを確認できて冷静になれていたのに、"明日も病院に来るから"と言い置いていくあたり、あの子にとって俺は信頼できない人間なのか、それとも千歳が単に目を離すのが不安な存在なのか。いずれにせよ、気にかけてくれる存在が多いに越したことはない。
 病院に戻り、荷物を置いて聴取の際に高木刑事が座っていた椅子に腰を下ろした。
 千歳はすぅすぅと静かな寝息を立てている。サイドミラーがぶつかった背中、標識にぶつけた頭と右腕。骨は折れていないそうだが、特に右腕の怪我は生活に支障が出るものだろう。
 俺が面倒を見るのは、きっと記憶のない千歳にとって最良ではない。千歳が最も懇意にしている少女か、宇都宮氏の妻か。信頼できる同性の友人に託す方が、きっと千歳自身落ち着けるだろう。それなのに、少女と連絡を取れるコナン君にも、宇都宮氏と連絡を取れる風見にも、連絡を取りたくないと思う自分がいる。
 眠っているならいいかと安易な気持ちで触れた手は、怪我のせいか平素より少しだけ高かった。

 "この手が温かいままであってくれるなら、あとはどうでもよかった"

 不意に、千歳の言葉が脳裏を過った。
 千歳は俺が始末されない未来だけを考えて、何もかもを捨てた。自分が幸せになれなくても、俺が生きてさえいれば良かったのだと。

「俺は……この手が温かいだけじゃ、足りない。足りないんだ……」

 千歳のおかげで生きていられるなら、千歳にも幸せでいて欲しい。
 この頼りない手よりは、我儘を貫き通せる自信がある。それでも――。

「あむろさん……?」

 迂闊に本名を呼ばれないようにと教えた偽名で呼ばれ、はっとして顔を上げる。
 眠たそうな目を向けてくる千歳の顔を見て、慌てて手を離した。

「ごめん……何でもないんだ」
「……っ、?」

 千歳はどこかが痛むのか顔を顰めた。

「どこか痛むんですか?」
「傷じゃ、ないけど……頭が。寝過ぎたのかも」
「なるほど。でも一応先生を呼んで診てもらいましょうか」

 素直に頷いてくれたので、ナースコールで千歳の訴えを説明して来てもらった。
 短時間の頭痛以外には何も変化はなく、ひとまず様子を見ることになった。
 面会時間が終わりかけているため、医師が出ていってから千歳の荷物を置いて病室を出る。
 真っ白な廊下を歩きながら、千歳の姿を思い起こした。――いつもは俺を見ると滲む柔らかさが、欠片もなかった。

「……想像していたより、きついな」

 こぼれ落ちた独り言が、細長い空間に虚しく溶けた。

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