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 味の濃い物、肉と魚。それらを避けた結果決まった夕食の鍋。目星をつけた店の個室が取れたので、いくらかは気を楽にしていていいという点も良かった。
 くつくつと煮立つ出汁の中で揺れる具材を見つめる穂純さんの目はきらきらとしている。うどんは消化にいいし、ただでさえ栄養が足りていないから、早々にエネルギーを使い果たしてお腹を空かせているのだろうか。
 よく煮えてくったりとした白菜、焦げ目のついた焼き豆腐、彩りにもなっている人参、エノキや椎茸を盛りつけていると、手元をじっと見られた。

「どうしました?」
「お肉食べたい……」
「黒川さんから、"味の濃い物や肉や魚はあまり食べられない"と伝言をもらいましたが。伝言主は食事の面倒を見てくれていた女の子です」
「う……哀ちゃん、いつの間に……」
「食べたいなら駄目だとは言いませんが、そうですね……ちゃんと煮えた鶏だんごなら、食べられるかな」

 食べたがるのはいい事だが、胃は弱ったままなのだ。下手に生煮えの食材など食べさせられない。
 割って中まで火が通っていることを確認した鶏だんごを盛りつけると、彼女は納得してくれたようだった。

「熱いので気をつけて」
「うん、ありがとう」

 湯気の立つ具にさっぱりしたポン酢醤油ををかけて、息を吹きかけつつ食べる様子を眺める。
 与えられた物を素直に食べるところが小動物のようで可愛らしい。つい、頬を弛めてしまう。

「おいしい……」
「気に入ってもらえて良かった。無理しない程度に食べてくださいね」
「はーい」

 昼食を摂ったのが遅い時間だったためか少しずつ取り分けた物を食べ、締めの雑炊も程よく堪能できたようだ。店を出る頃にはすっかりご機嫌だった。
 着替えを買うのに付き合ってもらってから、ホテルに戻った。
 すっかり気を緩めているのか、バスタブに湯を溜めている間にアメニティを眺めて入浴剤を見つけたらしい。

「ねぇ、入浴剤入れてもいい?」
「あぁ、もちろん。ゆっくり温まってくるように」

 本当の意味でリラックスして入浴できるのは、久々なのだろう。
 仕事をしながらゆっくり待って、バラの香りを纏って出てきた彼女と入れ替わりで風呂に入った。入れられた入浴剤や置いてあったシャンプーなどは、バラの香りではなかった。ということは、私物だろうか。何にせよ彼女に似合う香りだったから、気にはならないが。
 シャワーを浴び終えて寝室に行くと、彼女はちょうどベッドに寝転がったところだった。布団を手のひらで押して感触を楽しんでいる。

「気に入ったか?」
「とっても」

 声をかけると、機嫌の良い返事が返ってきた。
 カーテンを閉めてから、ベッドのそばにあるランプを点けさせて部屋の照明を落とした。ランプの笠から漏れるオレンジ色の光が、柔らかく枕元を照らす。
 布団に潜り込むのを眺めながらベッドに上がったが、特に怯えを見せる様子はない。

「本当に大丈夫か?」
「うん。誰かと寝るのはナディアさんと女子会して以来かなぁ」
「そうか」

 こちらに体を向けて宙に視線を泳がせる様子を眺めながら、話を聞く体勢になった。
 何から話すか迷っているらしい。

「好きに話していいぞ。聞きたいことがあるなら答える」
「じゃあ、順を追ってにする。最初は確か、宇都宮さんを訪ねた帰りで……藤波さんから送られてきた郵便物だと思って開けたのが、写真の束とスマホが入った封筒だったの……。しばらくして、"どうにか伝われば"って思って、藤波さんに電気料金のことを伝えて。……もう相手の手元に写真があるんだから、増えても同じだ、ばら撒かれないようにしなきゃって思ってたけど……やっぱり嫌で、体調も悪くなっていって。あのスマホに心配するメールが送られてくるたび、投げつけて壊してやりたいって、思ってた」

 ぎゅう、と枕の端が握り締められる。
 正常な思考ができずに藤波に中途半端な伝え方をして、僅かな可能性に縋った。それでもストレスには耐えられずに不眠と食欲不振になり、日に日に体調も崩れていった。
 相槌を打ちながら、痩せた頬に目を遣ってつきりと胸が痛んだ。

「郵便物を取りに行ったり、薬局に行く以外はほとんどリビングにいて……ごめんなさい、子どもたちが来るまでのことは、あんまり覚えてなくて……」
「あぁ、覚えていないなら無理に思い出す必要もない。話したいことだけ話せばいいんだ」
「ん……。最初は怖くて、それが段々、監視されてるストレスに変わっていって……体調が悪いのもあって、上手く頭も回らなくて……いつまで続くんだろうとか、本当に一切考えなかったのよね。子どもたちに連れ出してもらうまで」
「無理もないさ。……もう少し早く連絡してやれればよかったな」

 謝る前に、首を横に振られた。

「もう気にしてないわ。……聴取とか、付き添ってくれる? 警察署に行くのは都合が悪い?」

 おずおずと付き添いを頼んでくる姿に、不謹慎ながら喜んでしまう。こちらの都合を慮りながらではあるが、要望を口にしてくれるようになったのだ。

「探偵として時々出向くから、問題ない。まぁ、明日明後日には呼び出されるだろうな」
「そうよね……あの、匿ってくれた人が犯人を突き止めるために思いっきりハッキングしてるんだけど……」

 そういえば、彼女を匿っていた人物も彼女から聞いた情報を基にハッキングをしていたんだったか。
 学生だというのにどいつもこいつもスキルがありすぎないか、と心配になる。
 藤波にそのあたりの痕跡を調べてもらったが、かの大学院生は一切の痕跡を残さずにハッキングを済ませたらしい。

「藤波が"痕跡は残っていない"と言っていたし、発覚のきっかけは宇都宮氏からの相談だという尤もらしい理由もある。何か見つかったら藤波がやったことにすればいいさ」

 事情があって藤波がハッキングを行った。藤波の矜持に傷をつけてしまうかもしれないが、"ゼロ"にかかればその程度のことはどうにでもできるし、彼女に罪悪感を持たせることも避けたい。自身を匿ってくれた相手に嫌疑がかかることはないとわかると、彼女はほっとした様子だった。
 詳しいことを聞いて、聴取の際に気をつけた方がいいことを助言した。

「匿ってもらう間は、本当に良くしてもらったの。ご飯も食べられるものをって気を遣ってくれたし、お風呂ものんびり入れたし。ふらつかなくなってからは、ちゃんと手伝いもさせてくれた。療養する間に、いろいろ調べて解決する手段まで考えてもらって……。たしかその頃だったわ、藤波さんが電話くれたの」

 匿ってくれたのがその大学院生と子どもたちで、彼女にとっては良かったのだろう。基本的には"普通の生活"を享受させて、彼女ができないことはやってくれた。手伝いたいと言えば、やることを与えてくれた。無理をさせず、かつ無力感に襲われないラインを見極めてくれていたはずだ。
 それから、こちらの状況を話し、以前彼女が事件に巻き込まれた展示会でできた繋がりを使って宇都宮氏に協力を仰いだことを教えてもらった。彼女が心配していた、公安の人間の記録も残っていなかったことも伝えた。
 一頻り話し終えてほぅと溜め息をつく彼女の髪を掠めるように撫でると、安心したように目を細められた。
 頭の中や感情を整理してみると、あれこれ気になることが出てきたらしい。示談に関する疑問をいくつか解消してやっていると、彼女は眠くなってきたのか枕に顔を埋めた。
 話の途中でも眠気を訴えることができる程度に気を許されているのだと思うと気分がいい。頭を撫でていると、とろりと目が微睡んだのがわかった。
 すっかり安心しきった様子を見ていると、喜びと同時に罪悪感が込み上げてくる。
 ――俺は君を一番に考えてはやれないのに、それをわかっているはずなのに、どうしてひたむきに信頼してくれるんだ。

「……ごめんな」
「うん……?」

 零れ落ちた謝罪に対して、彼女はぼんやりした様子で聞き返してきた。
 意識は眠気で朦朧としているようなもので、瞼も重そうだ。何も考えなくていい――ただ、安心して眠ってくれれば。

「なんでもない。おやすみ」

 明かりを消して真っ暗にした部屋の中、頭を撫でているとくたりと彼女の力が抜ける。すぅすぅと静かな寝息が聞こえてきて、すっかり寝てしまったのだと安堵した。
 眠ってしまい力の抜けた体を抱き寄せて、旋毛に唇を触れさせた。

「……好きになってごめんな。どんな立場にあっても君を守るから……どうか、守られていて欲しい」

 降谷零としても、"安室透"としても、"バーボン"としても、彼女がそうしてくれるように、彼女にとっての不利益を招く態度を取る気はない。
 それでも――こんな面倒な立場にいる男に好かれたこと自体が、彼女にとっては不運な出来事だろう。
 願わくば、彼女がそれに気づくことがないように。祈りを込めてもう一度旋毛にキスを落とし、やつれた体を抱きしめて目を閉じた。

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