02

 クラウセヴィッツ夫妻と別れてから二週間が経ち、再び会う時がやってきた。
 一泊してから商談に当たると言っていたので、今日は私服だ。
 空港で出迎えるとヘレナさんから真っ先に抱擁を受けた。知り合いがおらずホテルのスタッフや買い物先や飲食店の店員としか会話をしなかった身としては、こうしてわたし個人を認識して、あまつさえ好意を向けてくれるひとというのは大変に貴重で、そしてうれしい。

≪ヘレナ、あまり彼女を困惑させないように。……すまないなチトセ、あれから君に会いたいと待ち遠しそうにしていたんだよ≫
≪いいえ、こうしてまた会えてうれしいわ。お小遣い稼ぎにもなるから、願ったり叶ったりよ≫

 茶化して言えば、エドガーさんはうれしそうに笑って、"さぁホテルに行こう"と口にした。
 ホテルのロビーで契約内容を決めて、前回と同じように二部契約書をつくった。滞在日数あたり二万円と、商談に関しては守秘義務を果たしてほしいとのことで十万円の通訳料。加えてホテルの宿泊料と食事代を負担してくれるというのだから、やはり海運会社の社長というのは本当なのだと思い知る。ホテルのチェックアウトをしてきてくれと言われた理由がよくわかった。
 少ない手持ちをやりくりして、身分の取得からやろうとしているわたしとは正反対だ。
 ひとまず勉強したことを伝えて、商談に必要になりそうな知識も教えてもらった。
 その後は夜まで観光に付き合って、一緒に食事をした。ヘレナさんの話は止まることがなく、仕事をしているエドガーさんがかっこいいという惚気話だったり、日常生活であったうれしいことだったりを聞かせてくれた。

≪そういえば、チトセは経理ウーマンだと言っていたけど、今はどうしてるの? 休暇にしては長いわね?≫

 不思議に思うのも無理はなかった。仕事は休暇中、と偽っていたのだ。

≪ちょっと、仕事がきつくて……次の仕事が見つかるまで、休息期間中≫

 わたしが素直に言い出さなかった理由を、察してくれたようだ。
 ヘレナさんは苦笑して、慰めるように肩を叩いてくれた。

≪日本人は仕事に真面目すぎるところがあるわね。通訳で生計を立てていこうとは考えないのかしら?≫
≪わたしにできるかしら≫
≪あら、仕事にしていないにしては上出来だったと思うわ≫
≪ありがとう。考えてみる≫

 小遣い稼ぎではなく、本格的に仕事にする、か。
 確かにエドガーさんを通じてコネを広げて、業にすることができればいいのだろうけれど。
 外国語が理解できるこの謎の力がいつまで働いているのかはわからないのだから、リスキーな気はする。けれども、今自分がやろうとしていることに比べればマシな気がしてきてしまう。とりあえずその方向も考えておこうと心に留めた。
 食事を終えて、ホテルの部屋に戻り一息つく。化粧を落としてシャワーを浴びれば、すっきりした。

「さて……」

 生まれてから今までの架空の経歴を、なんとか作り出さなければならない。
 二週間経った今でも、そのことに苦心していた。
 親は生まれてすぐに失踪。疎遠だった親戚を盥回しにされたが、幼かったがゆえに名前も住所も覚えていない。戸籍もなく頼れる親戚もいないまま日雇いのアルバイトなどをして過ごしてきて、預金口座を開設しようと思い立って戸籍を取得しに行ったら、思い当たるどこの市町村に問い合わせても登録されていないと言われ、親が然るべき手続きを踏んでいなかったことを知った。
 一応ここまで考えてみたが、通用するのだろうか。
 下手に細かくつくりあげるより、多少隙がある方が人間の記憶らしいだろうか。
 ルーズリーフに書き起こしてあるそれを眺めて、考え込む。
 わたしにはもうこれ以上考えつくことはできなさそうだ。
 枕元にルーズリーフを放り投げて、ライトを消した。


********************


 商談は相手の会社で行うことになっているらしく、スーツを着てエドガーさんと合流した。
 ヘレナさんはさすがについては行けないらしく、部屋で留守番のようだ。"チトセがいるなら買い物にでも行ったのに"と少々拗ね気味だったので、エドガーさんに良ければあとで付き合ってやってくれと頼まれてしまった。どのみち通訳は引き受けているのだから、二人が行くところについていって通訳をするだけなのでまったくかまわないのだけれど。
 上等なスーツを着こなすエドガーさんは、旅行の際の柔和な表情をすっかり隠して、社長の顔をしている。これで通訳がうまくいったら、仕事にする方向で考えよう。そう思える程度には、彼からやり手の雰囲気が感じられた。
 エドガーさんの商談の相手は、大会社の社長だった。日本国内のみで生産・販売されている品をヨーロッパでも売ってみないか、という提案をするとのことだ。ヨーロッパへの輸送に、自分を使ってくれという売り込みつきで。

≪エドガーさん、そういえばわたし、名刺を用意していないわ≫
≪おや、今日は切らしてしまったと言ってやり過ごそうか≫
≪そうするわ……≫

 元々業としてやっていないのだからあるはずもないのだが、仕事とするなら用意した方がいいだろう。
 前に勤めていた会社の名刺ならあるが、まさかそれを出すわけにもいかないし、そもそもこちらにはその会社自体が存在していなかった。
 環境の変化のせいだろうか、いろいろと抜けてしまっているなぁと思いながら、相手先の会社に入っていくエドガーさんの後を追う。
 目配せをされて、受付の女性に取次ぎをお願いする役を引き受けた。

「こんにちは、お世話になります。本日こちらの社長とお会いさせていただくことになっているエドガー・クラウセヴィッツという者ですが」
「エドガー・クラウセヴィッツ様ですね。確認いたしますので、少々お待ちください」

 受付の女性はすぐに確認を取り、エレベーターまで案内してくれた。
 そこそこの企業に勤めてはいたけれど、外に出るような職種ではなかったので新鮮だ。
 エレベーターの中で簡単に必要事項を確認して、仕事に当たった。
 相手はニュースで見かけたイケメンやり手社長だとかで、そういえば宇都宮貴彦という名前も読んだなぁという印象だ。ニュースに取り上げられたことが原因なのかはわからないけれど、仕草がどことなくキザだ。
 しかし仕事に対する態度は真摯なもので、エドガーさんの言葉を訳した私の声に耳を傾け、あれこれと質問をしてきた。同時通訳は神経を擦り減らすような思いがするけれど、相手にストレスを与えないためには必要なことだ。言葉をすべて聞いてから訳してもいいけれど、やりとりがスムーズにできると思ってもらわなければならない。言葉を発している側の言葉を聞き逃さないようにしながら、聞いている側にも正確に伝えるというのは、慣れなければ大変そうだ。
 無事に商談がまとまる頃には、わたしもすっかり疲弊していた。

「君、少しいいかい?」
「わたしですか?」

 宇都宮さんに話しかけられて、エドガーさんに視線を送るとウインクを返される。少し相手をしてこい、ということだろう。頷いて、宇都宮さんに向き直った。

「君はあまり通訳者の経験がないみたいだけど……」
「あら、わかってしまいましたか?」
「同時通訳を少し大変そうにしていたからね。君は彼とどんな関係?」
「友人ですよ。彼のプライベートの旅行で知り合って、通訳をお願いされまして。今回はきちんと仕事として請け負っておりますので、ご心配なさらずとも――」
「あぁ、そういうことじゃなくてね。実は今夜、うちで主催する懇親パーティーがあるんだよ。君が仕事を延長してもよければ、クラウセヴィッツ氏にも参加してもらえないかと思って」

 話しかけてきた意図がよくわからない。
 どうやら通訳者として認識はされているようだけれど、関係を訊かれるだなんて。
 そのうえ、エドガーさんが参加の是非を決めるべきパーティーに、わたしを先に誘うというのもおかしい。

「そういうことでしたら、聞いてみましょうか。……ですが、何も先にわたしに話をつけずともよかったのでは?」
「いや、ちょっとした興味本位だよ。クラウセヴィッツ氏も君がいた方が参加しやすいだろうしね」

 困った様子の笑顔からは、真意を読み取れない。
 様子がおかしいと思い始めているエドガーさんにも悪いので、探りを入れるのはやめにする。

≪エドガーさん、彼が今夜の懇親パーティーに参加しないか、って。もちろんわたしも同行するわ≫

 尋ねれば、エドガーさんは二つ返事で頷いた。
 それなら早速タキシードと君たちのドレスをレンタルせねばと意気込むエドガーさんを微笑ましい気持ちで見ながら、彼の答えを伝える。

「そうか……ありがとう」

 誘いを失敗すればよかったと言いたげな、そんな微苦笑。
 訝しく思いながらも、招待状をもらい、挨拶をして応接室を後にする。
 宇都宮さんが着信の確認のためか弄っていたスマホから着信音が鳴り、すぐさま彼はそれを取った。

≪オットマーに気をつけてくれ≫

 フランス語で発された言葉に、思わず振り返る。エドガーさんにわからない言語を使ったのは、彼に知らないでほしいから? 電話をするふりをしながら、こちらをまっすぐ見据える目。
 なるほど、要注意人物が参加してくるからできれば参加しないでほしかった、しかし彼には誘うしか選択肢がなかった。――参加するなら気をつけろ。
 どう厄介なのかまで聞き取れていればよかったのだけれど、あの様子では監視されているのだろう。
 面倒なことになりそうだとは思いつつも、余計なことを考えずにいられそうなのはありがたかった。

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