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 ぽつぽつと思いを語る彼女は、きゅっと服の袖を握ってきた。

「でもわたしは、まだそれを選べない。痛いのも苦しいのも怖い。……死にたく、ない」

 俺に、――特に"バーボン"に深く関われば、危険は避けられない。
 もちろん守るつもりだが、恐怖と無縁というわけにもいかないだろう。

「……帰るなら、それらは全部避けるべきだからな」

 彼女はまだ、帰りたがっている。その意思を尊重する返事をすると、困ったように微笑まれた。

「わたしがこうだから、きっと降谷さんは何も言えないんでしょう。いつか……帰り方がわからないまま、降谷さんと一緒に苦しむことを選べたら。そうしたら、教えてくれる?」
「そうできたらいいな」

 打算があることは見抜かれている。そのうえで、俺が好意を抱いているということは信じてくれている。
 それらをすべて飲み込んで隣にいる未来に、少しだけ目を向けてくれたのだ。今はそれだけで十分だった。
 寄りかかっていた頭が離れて、傍らから小さな溜め息が聞こえた。話はこれで終わりなのだろう。深く追及されなくて、少し安心した。

「そうだ。近々、米花町に活動拠点を移すつもりなんだ」

 あの赤井が死んだなんて、未だに信じられなかった。
 関わりがあったと見られる毛利小五郎に近づくつもりだ。その毛利小五郎という人物は、米花町に探偵事務所を構えている。
 それは、彼女の生活圏での行動が増えることを意味していた。

「情報の受け渡しも増えると思う。……どうする?」

 彼女からは何を知っていて何を知らないのか、という話は聞かないことにしている。もちろん教えてくれれば受け入れるが、無理に聞き出すつもりはなかった。
 少し考えて、申し訳なさそうに見上げられた。

「しばらく知らない人のフリでもいい? ちょっと……知り合いだって知られるとまずい相手がいて」
「わかった。対応を変えるときにまた教えてくれ」
「うん。……あの」
「ん?」
「警護って……夜は白河さんに代わるの?」

 "恋人"という関係に落ち着けたとはいえ、彼女は自身に好意を持つ異性からストーカー行為をはたらかれたばかりだ。
 さすがに夜間の警護は同性の方が良いだろうと打ち合わせをしていたが、彼女にとっては本意ではなさそうだった。

「そのつもりだが、希望があるなら聞く。……何かあるのか?」

 穂純さんは言いにくそうに、クッションで顔を隠した。

「その、ちょっと、降谷さんに話し相手をしてほしくて……」
「それだけか?」

 話し相手をしてほしいと言うだけの割には、言いにくそうだ。
 不思議に思っていると、意を決したような表情で見上げられる。涙目で睨まれてしまった。

「……添い寝してほしいって言ったら、怒る?」
「まさか」

 自棄を起こしたような言い方だったが、拒む理由なんてひとつもない要望だった。
 ただ確かに、添い寝は言い出しにくかっただろう。躊躇った理由がわかった。

「でも無理しなくていいんだぞ」

 穂純さんは首を横に振った。

「あの犯人と協力者が怖いだけで、宇都宮さんに支えてもらったときも、全然怖くなかったし。それに、降谷さんなら……一番安心できる、というか」
「話したいのは、今回の件のことか?」
「……うん。自分の中で、整理したい、かな……」

 恐怖を覚える体験をして、それを誰かに話すことで落ち着くのなら、そうした方がいい。
 助けてくれた人たちに任せきりにして解決はできた。それが悪かったとは思わない。しかし、今後どうするかは、彼女自身が考えなければならないことだ。
 ストーカー被害のアフターケアは、とにかく被害者を安心させることに重きを置く。添い寝をしてほしいというのも、安心できる相手に傍に居てほしいという願いの表れだろう。ゆっくり眠れるのなら、それがいい。

「わかった。とりあえずは夕食だな。あと、少し買い物に付き合ってくれ」
「買い物?」
「着替えがなくてな。白河さんと交代するつもりだったから」

 白河さんは休憩をして戻ってくる予定だった。
 その予定を狂わせたことを申し訳なく思っているのか、穂純さんの眉が下がる。

「あぁ、えっと……取りに帰らなくていいの?」
「買った方が早い。あれば着るんだから、無駄な買い物ってわけでもないしな。……部屋の外に出たら、一緒にいるのは安室だと思ってくれ」
「わかった」

 穂純さんは深く頷き、ソファから立ち上がるとクッションを座面に置いた。

「化粧してきていい?」
「あぁ、ゆっくりどうぞ」

 外に出るのに、やはり化粧は必須らしい。
 ポーチを持って洗面所に向かう背を見送り、白河さんに電話をかけた。

『やっほー、どうだった?』
「どうにか受け入れてもらえました」
『それは良かった。で、何か変更?』
「えぇ。夜間の警護もこのまま僕が続けた方が良さそうなので」
『あぁ、やっぱり穂純ちゃんにとって一番信頼できるのは君なんだね。了解』

 白河さんは感心したように言い、いくつか仕事を引き受けてくれた。

『それで、彼女の様子はどう?』
「場所がいいのかはわかりませんが……今のところ、過度な被害妄想といった深刻な後遺症は見受けられません。夕食を摂るために出かけるんですが、外出を嫌がっている様子もない」

 誰かに監視され続けているような感覚を覚えたり、恐怖心がフラッシュバックしたりということはなさそうだった。
 しかし、彼女は耐えられないほどの恐怖や不安を感じると感情を麻痺させる傾向がある。気持ちの整理をつけてから後遺症が表面化する可能性も否定できない。

『そっか。その分だとすぐにはカウンセリングは必要ないかな?』
「話を聞いてほしいみたいなので、できる限り整理をつけさせてみます」
『了解。様子がおかしかったら言ってね、すぐに予約入れたげるから』
「えぇ、お願いします」

 化粧をし終えて洗面所から出てきた穂純さんを見て、白河さんにそのことを伝え通話を終えた。

「もし外で気分が悪くなったら、すぐに言ってくれ」
「? うん、わかったわ」

 あまりよくわかっていない様子で頷かれた。
 こちらが気を張り詰めて様子を観察しているのが間抜けに思えてしまうほど穏やかだ。とはいえ、それが望ましい状態だ。被害を受けた本人が、不安を抱えることなく過ごせているのだ。
 何食べよっかな、とスマホを弄って店を探すことまでしている。しかし写真を見て美味しそうだと決めるのは良くない。面倒を見てくれていた少女も、味の濃い物や、肉や魚はあまり食べられないと言っていた。少しは食べさせてもいいのかもしれないが、無理をさせてはいけない。

「鍋はどうだ? 美味しい店を知ってるんだ」
「!」

 穂純さんの目が輝いて、すぐに鍋に興味が向いた。
 無邪気な様子は見ていて微笑ましい。提案はすんなりと受け入れられたので、席の予約を入れてからホテルを出た。

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