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作業も終わりに近づいてきたところで、スマホに着信が入った。発信者は白河さんだ。
「はい」
『黒川でーす。そっち片づきそう?』
着信に応じると、朗らかな声が聞こえてきた。
「えぇ、当初の予定通り夕方にはそちらに着けそうです。彼女の状態は?」
『遅めの昼食にうどんを少しだけ食べて、戻ってきてからはソファで寛ぎながらメールチェックしてる。でも考え込んでるかな? 多分安室君の言葉について気にしてるよ』
「そうですか」
不安にさせてしまっていることは分かっているが、きちんと話をしたい。
『降谷君さ、穂純ちゃんのこと大事?』
「……何ですか突然」
唐突な話題の転換に、思わず言葉に詰まってしまった。
『大事に思ってないならやめときなって話。特に、依存されたくないならね』
白河さんは気にするでもなく会話を続ける。
依存、か。彼女がそうできるほど他人に興味があるなら、どれほど良かったか。確かに拠り所を求めてはいるのだろうが、こちらが一歩引けば二歩引くような線引きの不器用さが垣間見える。何度も依存しかけて、思い出したように線引きをして。その結果が現状だ。
彼女は自分から他人に興味を持たない。好意を持たれれば、それが自分に害を為すようなものでない限りは、素直に好意を返そうとする。だからクラウセヴィッツ氏や宇都宮氏と良好な関係を築けている。ストーカーに対しては、欠片も心を動かさなかった。
向けられる好意に恋慕が含まれているとしたら、どうなるのだろう。彼女はバーの個室で会うときですら、俺が異性であることを意識していなかった。逃げてしまわないだろうか――その点が少しだけ不安ではある。
「彼女からの依存なら、心地良いぐらいですよ。……僕もようやく素直になれる」
『……そっか。ならいいよ、心配はしない。少しだけ、手助けもしてあげる』
「手助け?」
『君にちゃんと向き合うように言っておいてあげるよ』
「……ありがとうございます」
白河さんの言葉なら、穂純さんはすんなりと聞き入れるだろう。
通話を終えて、一頻り自分の肩を揉んで解してから作業を再開した。
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組織の用事を済ませてからホテルに向かい、フロントで事情を知っている従業員を呼んで対応してもらった。
部屋にいる白河さんの確認が取れるとすぐに通された。
エレベーターで目的の階まで上がり、部屋のドアをノックした。
「はいはーい」
朗らかな返事が聞こえてきて、ドアが開く。
声色通りの穏やかな顔をした白河さんが姿を見せた。
「お疲れ、降谷君」
「白河さん、お疲れ様です」
「ひとまず私はこれで戻るけど、何かあったらすぐ呼び戻して」
白河さんは背後を見遣った。窓に向かうかたちで座っている穂純さんの頭が見える。
どうやらこちらを見る勇気はないようだ。
「えぇ、すみません」
「いいよいいよ、この件で動ける女性捜査官っていったら私だけなんだし。じゃ、後は任せた」
部屋を出ていく白河さんに会釈をして、まっすぐに伸びた背を見送った。
ドアを閉めて、ゆっくりと穂純さんに近づく。備えつけのクッションを抱きしめた指は、柔らかい布に食い込んでいた。頼りだと言わんばかりに抱きしめて、俯いて視線を逃がして。怒られることを予感している子どもにしか見えない。
「穂純さん、顔を上げてくれるか?」
怖がらせないように意識して声をかけると、穂純さんはおずおずと顔を上げてくれた。
視線が合うと、瞳が不安そうに揺れる。
「……怒ってる?」
それなのに、問いかける口調は平素と変わらない凛としたものだ。
わかっている、これは彼女の鎧だ。不安で堪らないくせに、飄々とした態度を見せてやり過ごそうとしているだけだ。
「そうやって強がろうとしていることに対しては」
穂純さんの顔が、意表を突かれたのかきょとんとしたものになった。それからゆっくりと肩の力が抜けて、握り締められたクッションの形が元に戻る。
横にずれて俺が座るスペースをつくり、そこを手で叩いて座るように促してくれたので、足元に荷物を置いて素直に腰を下ろした。
白河さんに見せられた動画の中の彼女よりは、幾分か健康的になっている。しかし元通りになったかと言われれば、答えはノーだ。相変わらず頬は少し窶れて見えるし、顔色も悪い。
「体の具合は?」
「だいぶ良くなった。眩暈もふらつきもないし、食欲もあるし」
回復傾向にはあるらしい。生活に支障が出るほどの不調がなくなってきただけで、まだ調子は悪いのだろう。
「眠れそうか?」
「うん、ちょっとうとうとしてた」
「……そうか」
一番の体調不良の原因になっていたであろう不眠が解消されたのならいい。
酷いトラウマになっているわけではなさそうで安心した。
「藤波さんから聞いた伝言の意味が、よくわからなかったんだけど……」
穂純さんは眉を下げて困り顔になり、おずおずと尋ねてきた。
態度は遠慮がちだが、聞く言葉は直接的だ。思わず苦笑いが漏れた。
「……直球だな」
膝の上に肘を置き、頬杖を突く。自分勝手な言葉をぶつけたことは自覚していた。だから顔を見られなかった。
「実力を信頼されていないとは思っていないさ。現に藤波に電気料金のことを仄めかして調べさせてくれたし、電話での声からはこちらの調査に対して不安に思っているようすが感じられなかった」
「うん」
「ただ、自分の安全でなく……僕や白河さん、風見の身を案じたことが、引っかかったんだ」
して欲しいことを尋ねたとき、彼女は真っ先にカメラに公安の人間が映り込んでいないかを確認してほしいと言ってきた。
その真意を知りたくて、穂純さんと目を合わせる。
穂純さんは体を落ち着きなく揺らして俯いた。
「わたしのせいで、降谷さんたちに迷惑がかかるのはできるだけ避けたかったし……」
「それだよ。穂純さんは僕たちを心配するばかりで、自分のことで気にしていたのも匿ってくれた相手に探られているということだった。暗号とか、藤波が渡したUSBメモリとか……情報を送る手段はあっただろ?」
「……それ、は」
そのこと自体は、穂純さんも理解していたようだ。
彼女がこちらからの依頼をこなすのは、書斎でのみ。その書斎にはカメラがないのだし、作業に使うのはインターネットに一切繋がないノートパソコンなのだから、気兼ねなく藤波に助けを求める文章を入れられたはずだった。まとめて出している郵便物に紛れ込ませることだってできた。
「降谷さんたちにとって、余計なことだと思って……」
「いくらでも理由はつけられたさ。恋愛感情からくるストーカー行為に見せかけた、復讐なのかもしれないとかな。今の穂純さんとの協力関係においては、それができる程度には君は重要視されている。もし関係がなかったとしても、助ければ君に恩を売れる」
率直に告げたのは、彼女への誠意のつもりだった。
「言ったよな? 何か変わったことがあったら、些細なことでもいいから教えて欲しいって。暗号を使ってでも、情報をやりとりするメモリに入れてでも。……知らせてくれて、良かったんだ」
「……っ」
穂純さんは息を呑んで、責められたような顔をした。
「僕が属しているのが国家のための判断を優先する組織だということは、穂純さんもわかっていると思う。僕もそのために、今こうして穂純さんのそばにいる。それでも……何かあれば縋ってくれる程度には、心を許してくれていると思っていたんだ。"君"に会うことを許してくれたから」
気が強そうで、飄々とした態度を崩さない、嘘つきな女性。蓋を開けてみれば、自分の特異な経験を暴かれることを恐れた、臆病な人だった。
その臆病さを見せてくれたから、何かあれば頼ってくれるのだと思っていた。俺の前で強がる必要はないのだからと、素直に助けを求めてくれると考えていた。
穂純さんはきゅっと眉を寄せて、クッションを握り締めた。
「わ、たし……」
「あぁ」
きつく握られて白くなった指先を宥めるように手を重ねる。
ほろり、と潤んだ目から涙がこぼれ落ちた。
「わたしだって……ほんとうは、降谷さんに……"助けて"って、言いたかった……!」
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