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予め根回しをし、小型のカメラを身に着けた捜査官を穂純さんの住むマンションに送り込むことができた。
部下から上がってくるDr.アパシーに関する調査結果に目を通しつつ、イヤホンから聞こえてくる音声とノートパソコンに表示されている映像にも意識を向ける。
写真をばら撒くつもりでいる三人については、白河さんが穂純さんから連絡を受けたと言って話を聞き、近頃有名になってきた毛利小五郎、そして穂純さんを匿っている沖矢昴という大学院生と共に張り込んでいつでも確保できるようにしているらしい。
部屋の捜索は滞りなく行われ、不法侵入者の特定も難なく終わった。
『ひ……っ』
あとは犯人を連行するだけ――僅かに緩んだ空気の中、突然悲痛な悲鳴が上がった。
直後に廊下に響き渡ったスマホの落下音で、周囲もようやく異変に気がついた。カメラを持つ捜査官も振り返り、顔面蒼白になった穂純さんと彼女を支える宇都宮氏の姿を映す。彼女の足元では、スマホを拾い上げた小学校低学年らしい少年が不敵に笑っていた。
『お兄さんのお友達三人、全員確保したって!』
どうやら協力者の存在については、この少年と宇都宮氏以外の誰も知らなかったらしい。
『千歳さん、びっくりさせてごめんね。昴さんと毛利のおじさんとで、米花駅前にいたお兄さんの友達を探ってもらっていたんだ。それと、黒川さんっていうボディーガードのお姉さん! 千歳さんの様子が最近おかしかったから、独自で調べてくれてたみたいだよ。それで、手伝ってくれたんだ』
『そう……だったの』
穂純さんは呆然として、マンションに連れてこられた三人を見ていた。
当然穂純さんの部屋は使えない。必然的に犯人が住んでいる406号室に関係者を集めることになった。
白河さんが付き添える状態になり、穂純さんもいくらか安心できたようだ。宇都宮氏と白河さんに両側を守られながら、隅にひっそりと佇んでいた。
米花駅前で写真をばら撒こうとしたのは、三人の興味本位からだった。私生活――果ては裸体を写した写真をばら撒かれ、一人の女性の生活が壊される様を見てみたい。ばら撒かれた写真に対する通行人の反応を見てみたい。楽しみを壊された子供のように拗ねる姿に、その場にいた大人は一様に顔を顰めていた。
さてその写真を撮影していた当人はと動機を聞けば、好意的な感情が端を発した行動だったようだ。部屋から出るタイミングが被ったとき、エレベーターに乗り合わせたときに、穂純さんにとっては近所付き合いの一環で当たり障りのない笑顔を浮かべて行っていた会釈だけの挨拶。彼はその態度を自らへの好意の表れだと勘違いし、話しかけてこないことに一方的に不満を抱いて今回の行動を取った。
誰にも相談できないようにしておきながら、向かいに住む自分を相談相手に選んではくれないかと期待して。尤も、彼女は406号室に住む大学生に対する興味など持っておらず、相談相手になどとは少しも考えなかったようだが。
穂純さんは、話を聞いてはいたものの心には響かない様子で、感情の抜け落ちた表情でただ耳を傾けていた。
犯人も動機もわかり後の処理を警察が引き受けて解散となったところで、捜査官から白河さんへ小型カメラが渡った。
『千歳ちゃん、一度うちへおいで。しばらくはここもバタバタしているだろうし、今の部屋のことも考え直さないといけないだろ?』
宇都宮氏が声をかけても、穂純さんはぼんやりとしている。
『そうね……』
『宇都宮さん、私も付き添っていいでしょうか』
『あぁ、もちろん。千歳ちゃんが安心できるならぜひ』
招かれた宇都宮邸では、穂純さんは管理人への監督不行き届きだったと謝罪を受け、今後の引っ越しについてあれこれと提案を受けていた。
白河さんは宇都宮氏の妻へ今回のことを説明するために席を外したが、その間も新しい部屋にどう手を加えるかという話や引っ越しの段取りをしていただけのようだった。
宇都宮氏の妻も引っ越しの手伝いを申し出てくれ、引っ越しに伴って必要になってくる細かな手続きも専門家に任せることにしたようだ。
もう少し耐えれば、元通りの生活になる。穂純さんはようやくその実感が湧いたようで、いくらかは元気を取り戻したようだった。
匿ってもらっていた工藤邸まで宇都宮氏に送ってもらい、あとは公安で穂純さんの保護をできるようにするだけだ。
穂純さんを気に入っているのか引き止める少女は、おそらく純粋に一緒にいたがっているだけなのだろう。となると、探りを入れているのは少女に助け舟を出している大学院生の方か。幸い穂純さんが機転を利かせた切り返しで回避してくれた。
あの家を立ち去ることができるのならもういいだろうと融通の利くホテルを予約して、白河さんにその予約のメールを転送した。
穂純さんはすっかり安心しきった様子で子供たちと会話を弾ませていたのだが、ふらりと部屋を出ていく沖矢昴に視線を遣って、カメラの方へ――白河さんの方へ歩いてきた。
『黒川さん、子どもたちの相手をお願いしてもいい? 話があるみたい』
『え? あぁ……ついていかなくて大丈夫?』
『大丈夫よ』
探られているから嫌だとは言いつつ、怖がってはいないらしい。穂純さんにとっては"知っている人物"なのだろうか。
『ねぇ』
赤毛の少女が白河さんに話しかけてきた。
白河さんは慌てた様子で身を屈め、視線の高さを合わせる。
『! 何かな、えーっと』
『灰原哀よ。千歳さん、本当に大丈夫なのかしら。SNSを調べたら、犯人の両親は弁護士だったわ。マスコミにとっては格好のネタ。せっかく被害を最小限にしたのに、追われたりしないわよね?』
『随分大人びた子だねぇ。大丈夫、その辺りはバッチリ対策するつもり』
『それならいいけど。そうそう、千歳さんは最近固形物も普通に食べられるようになってきているわ。でもまだ味の濃い物や、お肉や魚はあまり食べられないみたい。食事には少し気をつけてあげてくれるかしら』
『一時期ゼリーしか食べてなかったみたいだからね……。わかった、無理して食べないように見張っておく。気にかけてくれてありがとうね』
少女はこくりと頷いて、ソファに戻ってしまった。人見知りなのだろうか。
現場でも随分活躍していた少年は、好奇心の塊のような子だ。"黒川恵梨"の職業である警備業についてや、穂純さんとの関係をあれこれ質問してきた。
のらりくらりとかわしているうちに、穂純さんが戻ってきた。
邸を提供してくれた工藤優作氏への連絡先を聞き、荷物を纏めて、お礼を告げて工藤邸を離れた。あとは白河さんが一緒なのだから、大丈夫だろう。
通信を切ってイヤホンを外し、白河さんから引き受けた情報整理の作業に没頭した。
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