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藤波は電話を取ってくれた穂純さんに対し、優しい声調で"今は大丈夫か"と問いかけた。ドイツ語での問いだ。
会話と同時にモニターに打ち込まれる文章に目を通す。
『えぇ、近くにも誰もいない』
≪まず、君のストーカーは外国語の音声を訳すようなプログラムは持っていない。だからドイツ語でなら喋っても大丈夫だ≫
『そう、調べてくれたのね』
何を言っているのかは藤波が打ち込む文章を見なければわからないが、彼女の声に安堵が乗ったことは感じ取れた。
本人も、"部屋がきれいじゃない"、"電気料金が上がった"という発言に意図して含みを持たせていたのだろう。
≪電気料金のことだけで十分だよ。明らかに君が置いたものじゃないカメラはいくつもあるし、そいつらが映像を送っている先のパソコンをハッキングしてみれば君の画像が大量にあるし。犯人の身元が割れたからスマホの契約浚ってみたら、明らかに強要罪になるようなメールが出てくるし。そのスマホに、マイクで常に音を拾って送信するように設定されたアプリも入っているし。……なんで相談してくれなかったのさ≫
『相談したのがバレたらと思うと怖かった』
≪その割に、今は違うところで療養できてるよね?≫
『運よく連れ出してもらえたの』
藤波の言葉への返答は軽やかだ。
何度か会ううちに心を開いてくれて、藤波が心配していたということも伝わったのだろう。
≪そっか。こっちでできることはある?≫
軽やかだった返答が、ぴたりと止んだ。
何を頼むか考えているようだ。
『念のため、あなたたちが映ったデータがないか確認してほしい』
抱いてしまった小さな落胆は、一体なんだというのか。
『わたしは大丈夫、もう少しで解決しそう。多分示談になる』
≪そこまで見通せてるの? 随分優秀な人間に助けてもらったんだね≫
『同時に少し探られてもいるから、できるだけ早く離れたい』
それならこちらを頼ってくれてもいいはずだ。
犯人はわかった。しかし動機がメールの通りなのか、何か別の動機を隠すカモフラージュなのかはわからない。
白河さんが戻ってきて、人差し指と親指で丸をつくった。どうやら許可が下りたらしい。これで、彼女にストーカー行為をした理由を調べることができる。白河さんはそのままデスクへ戻っていった。
手近にあった紙に穂純さんへの伝言を書き記した。
≪なるほどね。まぁ君の戸籍については今更だよ。そういうことなら、大人しくしておくよ。プリンターだけいい感じに故障させておくね≫
『お願い』
藤波は紙に目を遣り、こちらを窺った。"本当に伝えていいのか?"と言いたげだ。
伝えていい。あんな状態になるまで一人でいさせるぐらいなら、嫌な人間になってでも素直に頼ることを覚えさせる方がマシだ。
視線を合わせて考えが変わらないことを察した藤波は、もう一度紙に視線を落とした。
≪……それと、これは降谷さんからの伝言。"もっと僕を信頼してくれていると思っていた"≫
電話の向こうの穂純さんは、黙り込んだ。
風見が書類を持ち込んできて、藤波に声をかけたそうにしている。
肩を叩いて風見を示すと、藤波は嘆息して紙に書いた伝言の続きに視線を落とした。
≪話は次に会ったらしようってさ。ごめんね、ちょっと後処理で忙しいからまた連絡するよ≫
返事も聞かないまま、藤波は通話を切った。
苦笑いを浮かべながら風見の用件に応じ、それが終わるとデスクに突っ伏した。
「降谷さん……良かったんですか、あんなこと言って」
言ったのは藤波だ。俺からの伝言だとはっきり伝えたとはいえ、ようやく信頼関係を築けたのにそれを突き崩すような発言をしてしまったことが気に入らなかったのか、恨みがましい目で見られた。
「こちらには彼女に対する盗聴盗撮の動機を探る理由がある。にも関わらず、彼女は自身へ探りを入れられていることをわかっていながらこちらを頼ろうとしない。さっさと切り上げてこちらを頼ってくれれば、解決も保護もできるはずなのに、だ」
"探偵の安室透"、"警備業者の黒川恵梨"、事件解決に適した役は揃っている。彼女が身を寄せている先はあくまで一般人の居宅なのだから、出張でもなんでも理由をつけて離れさせ、隠す手立てもある。藤波が探った情報によれば犯人の行為に加担するのは三人、十分に取り押さえられる人数だ。
無条件に頼ってくれるものと思い込んでいた。そうならなかったことを"面白くない"と感じることも、予想外だった。
「まぁ、"黒川さん"を入れちゃえば速攻解決なんですけどねぇ。事件の解決までは向こうに任せるにしても、その後、可能な限りスピーディーに穂純さんの保護をしなければならなくなりましたし」
「?」
「いま風見さんが持ってきた連絡なんですけどね。Dr.アパシーの確保に穂純さんを使え、とのことですよ。ついでに言うなら、"協力体制を強固なものにしろ"――彼女の弱みを握っているだけじゃあ、ご満足いただけないみたいですね」
ぺらりと渡されたA4用紙には、上からの命令が印字されている。藤波の言うとおりで、そこには遠回しに"穂純さんの情を利用してでも公安を裏切ることがないように手綱を握れ"と書かれていた。
Dr.アパシーの一件は、確かに彼女が適任だろう。しかし危険なことはさせないという彼女との約束に反する。――違うな、だからこその命令だ。多少の危険を感じる程度では躊躇わないように、たとえば"降谷さんのためなら"と言ってくれるように。
風見はどうだろう。友人関係の延長で――といきたいが、生真面目な性格の彼では襤褸を出してしまう。
単純に接触回数が多いのは藤波だが、どうも穂純さんと同じ年頃の協力者と関わることを避けている節があるし、これにも乗り気にはならないだろう。
何より、俺が面白くない。蓋をした恋情が、悲鳴を上げているような気がした。
「……僕がやる」
「え、いいんですか?」
「いずれにせよ、彼女の信頼を一番得ているのは僕だ。今後も関わらせるのなら、"バーボン"が隣にいた方が都合が良い」
「まぁ……降谷さんがそれでいいなら、いいんですが」
「心配は無用だ。上手くやるさ」
「……わかりました。申告通せるように準備しておきますね」
「頼む」
ひとまずは、大学のOBとして面識があるという設定を通している"黒川恵梨"に出てもらうことになった。
白河さんは随分と乗り気だ。風見に周辺を探らせて作戦の全容を掴みながら、Dr.アパシーに関わる調査に手をつけた。
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